谷崎潤一郎 「刺青」



<あらすじ>

刺青師清吉には、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を彫り込むという年来の宿題があった。
彼の心に適った女を捜し続けた四年目の夏の夕べ、駕籠(かご)からこぼれた白い足を目にし、その持ち主こそ求め続けた女であることを確信するが、駕籠はいず方ともなく去ってしまう。
翌年の春半ば、偶然駕籠に乗っていた娘が彼の家へ訪ねて来た。
清吉は娘に二本の巻物の絵を見せ、「これはお前の未来を絵にしたものだ」と告げる。
絵は今にも刑に処せられんとする生け贄の男を眺める暴君紂王の寵姫末喜を描いたものと「肥料」と題する若い女が桜の幹へ身を寄せて、足下の男たちの屍骸を見つめている図柄であった。
絵の女の性分を持っていることを告白し、絵を恐れて見ようとしない娘に、清吉は麻酔を嗅がせ、一昼夜をかけて娘の背中一杯に女郎蜘蛛の彫り物を仕上げる。
それは清吉の魂と全生命を注ぎ込んだものであった。
眠りから醒めた娘には臆病なところは微塵もなくなり、清吉に向かって「お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」と言い放つ。
帰る前にもう一度刺青を見せてくれと頼む清吉の願いに応えて肌を脱いだ娘の背中は、折からの朝日を受けて燦爛と輝いた。

[千葉俊二・編 「別冊国文学 No.54 谷崎潤一郎必携」(学燈社)より引用]



「刺青」は、明治43年11月に雑誌「新思潮」に掲載された、谷崎の実質的な処女作。

 其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。

これが冒頭の一文。
谷崎といえばフットフェティシズム、谷崎といえば美しい女にひれ伏すマゾ気質の男。
「刺青」はその後の谷崎作品における重要な要素がたくさん散りばめられている一品だと思う。

 すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。

冒頭の一文と、この一文が以後のほとんどの谷崎作品の主題を端的に示しているのではないだろうか。
「刺青」の場合、「美しい者=強者」はもちろん刺青を彫られる娘。
では、清吉が「醜い者=弱者」なのだろうか。
娘と再会する前の清吉は「弱者」ではないように感じます。
刺青を彫られる苦痛にうめき苦しむ客を眺めながら、「嘸(さぞ)お痛みでしょうがなあ」と冷ややかな笑いを浮かべる清吉。
彼は、自分が刺青を彫りたいのはこのような者たちではない、と感じていたのでしょう。
描かれる清吉の仕事ぶりからは、弱者めいた点は感じられません。

そして、彼は自分の追い求めていた「美しい者」と出会う。
ここで面白いのが、人物ではなく、彼女の「足」との出会いであるということ。
鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。とあるように、清吉の目に映る女の足の描写がすごい。

 拇指(おやゆび)から起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵(きびす)のまる味、 清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。

どうよ、この気合いの入った描写(笑)。
清吉は、この足の持ち主こそ、自分が彫るべき女だと直感するも、彼女の乗った駕籠を見失ってしまう。
彼の足への憧れは、激しき恋に変わり、四年が過ぎる。
で、偶然彼の家にお使いにやって来た娘を見て、「あの女だ」と確信するわけです。

 「顔を見るのは始めてだが、お前の足にはおぼえがある。」

さすが恋焦がれていただけあります、狙った足は逃さない男、清吉。
そして末喜が生け贄の男を眺める絵、男たちの屍骸を眺める女を描いた「肥料」という絵を娘に見せる。
嫌がる娘に「この絵にはお前の心が映って居るぞ」 「この絵の女はお前なのだ。この女の血がお前の体に交って居る筈だ」と語る清吉。
ものすごいセクハラです(笑)。
しかし、絵から目を背けていた娘は、やがて「私はお前さんのお察し通り、其の絵の女のような性分を持って居ますのさ」と白状する。

清吉が追い求めていたのは、ただ単に美しい足を持った女ではなかったはずです。
末喜のように、精神も残虐なものを持った女を求めていたはずです。
娘は、外観はもちろんのこと、内面も清吉の理想にかなう女性だったのです。
娘が絵を見たがらなかったのは、自分の本性を見つめるのが怖かったから。
清吉は、駕籠から覗くあの足を見た瞬間から、娘の本性を見ぬいていたのではないでしょうか。
絵を引っ込めてくれと懇願する娘に、「己がお前を立派な器量の女にしてやるから」と言いながら、清吉は娘に麻酔を嗅がせる。
ここまで来ると、セクハラ通り越して犯罪です(笑)。

場面は変わって、清吉の仕事部屋。
光が降りそそぐ座敷で、眠る娘を眺めてうっとりする清吉。
彼は一昼夜かけて、娘の背に巨大な女郎蜘蛛を彫る。

 清吉は清浄な人間の皮膚を、自分の恋で彩ろうとするのであった。

清吉は自分の魂を込めて、女の背に蜘蛛を彫る。
それは彼の恋を成就させるための貴い儀式。
この犯罪めいた行為も、彼の恋のかたちなのでしょう。随分と歪んだ。

目覚めた娘は、随分態度が変わり、前日までの臆病な様子は微塵もない。
清吉が彼女の背に彫った蜘蛛は、清吉の命。
命をもらった娘は、本来の性を隠さず、美しさを増す。
前日に見せた二つの絵を差し出し、持ち帰るがいいと言う清吉に、娘はこう言い放つ。

 「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨てゝしまいました。───お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」

少し残虐性を秘めた、娘のこの言葉。
娘が、身も心も清吉の理想にかなう女に変身した瞬間でしょう。大好きですね、この台詞。
その背に蜘蛛を抱き締めることで、娘は本当の「美しい者=強者」になったのです。
地の文の娘を指す単語が、いつの間に「娘」から「女」になっているところも興味深い。
変貌した彼女は、もう「娘」という語では表現できない者になったということでしょうか。

帰る前にもう一度刺青を見せてくれと言う清吉。

 女は黙って頷いて肌を脱いだ。折から朝日が刺青の面(おもて)にさして、女の背は燦爛(さんらん)とした。

これで物語はお終い。
燦爛。なんていい響きなんでしょう。
男を「肥料」にして燦爛と輝く刺青。
その刺青の前に、清吉は拝跪することでしょう。
その時彼の恋は成就する。
そして、美しい者へひれ伏す「弱者=醜い者」へと成り果てる。
しかし、彼は不幸ではないはずです。
女に命(刺青)を預けた代わりに、彼は「『愚』という貴い徳」を得たのだから。
清吉が所有していた二つの絵。彼はなぜ絵を女にあげてしまうのか。
末喜の絵も、「肥料」というタイトルの絵も、もう清吉には不必要なものでしょう。
絵を眺めてイメージしていた女も、刺青も、彼は手に入れたわけですから。
女の最初の「肥料」になったという事実は、彼の「徳」となり得るでしょう。
その愚かしさ。
愚かではあるけれど、それは彼の新しい命になるのではないかと私は思います。



★作品からの引用文はこの色で表記しています。
テキスト…「潤一郎ラビリンスI 初期短編集」(中公文庫)




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