苦しいバトンは次々に渡された




 職員の手不足のため、村上寮母が炊事や看護に回り、小林昌子先生が生佳の衣服の洗濯をしたり、足袋のつくろいをすることも常のことになった。
 二十四時間の教育 と云えば言葉としては美しいが、学習と日々の暮らしが一つに繋って折り目のつかぬことにもなるのであった。しかし、それだけに先生と生徒たちの間は身内のように結ばれていった。
 仮教室としての修堂で過すこと二年六ケ月、昭和二十四年九月に分教場は、本渡浄南の元本渡高等女学校女子寮の県有建物に移った。分教場期成合の任務が一通り終わって 新たに後援会が結成され、その会長に県町村会会長井上健三郎氏が就任した。倉田元県議会議員等から陰に陽に庇護を受けたのもこの頃であった。
 県立校といっても 終戦後さして年を経ぬころ まして分教場の日々は、学習にも事欠くことが多かった。初代分教場主任武藤先生の苦労は、そのまま次の岡部静雄主任に引き継がれたもののようであった。生徒の明日食う食糧をどの様にして確保するかなど。折角苦心して入手した米だけに 出来るだけ長く食いつなぐため、あまりに大事に戸棚の奥深く蔵して ねずみと虫に侵され、食うにたえられなくなったことは、岡部主任にとって今も笑えぬ思い出である。
 昭和二十六年 生徒数も五十名に近くなり、校舎も狭くなり新校舎建築の気運が起こった。昭和二十八年四月一日 熊本県立聾学校より分離して、県立天草聾学校として独立した。独立初代の校長として 斯道の大家佐藤博見氏が就任、生徒数六十人、職員も十六人に増し、学校は着々整備されて 二神 田代氏等郡出身県会議員の協力により、昭和二十九年六月本渡町馬場に新校舎が落成した。
 その翌年 新寄宿舎の落成に関しその敷地購入のため、佐藤校長はじめ全職員が十万円を拠出、育友会分と合わせて二十万円を本渡市に寄附したことは、当時の経済的不如意の時代に、子供たちの安住の場を求める職員の教育的熱意に基づく 実に奇特な行為であった。県立天草聾学校は、現在生徒六十五名 小学部六学級 中学部四学級の編成で、職員は学校 寄宿舎合わせて二十二名の成員である。独立後十年間の卒業生も四十八名になっている。それぞれにあるいは家事に従事し、あるいは他郷に就職して自活の道に努力しているが、この子たちの父母は、「自分たちが生きている間は、何とか養っていきます。もし死んだら。……それを思うと耐えられない。とひそかに涙を拭く。
 特殊教育は、詮ずるところ子供たちが少なくとも最低の生活でも、一人で生きれることを極めて困難な目標ながら それを悲願としている。言語教育は他人と意志を交換するため、技術家庭教育は職業の基礎訓練である。


聾学校10周年を迎う(天草民報記事より昭和38年2月24日発行現文のまま)