善意の結晶そのものの期成会
昭和21年、衣も食も住もドン底の生活であった。特殊教育の地方啓蒙のためとはいえ熊本から本渡へ旅行するにもよほどの不自由に耐えねばならなかった。食券食糧持参、鉄道の三角線は客車不足で人々は貨物車で往来し、時には豚と同乗することもあった。バスの交通も極めて少なかった。聾児の集団を引率して天草に渡る先生たちの気遣いと心労は察するに充分であた。
この学芸会を見て地元出身生徒の父兄、本渡の小林哲人、谷山初太郎、松下豊作、亀川の井上広造、梶原重秋氏等の感激はまたひとしおだった。時をおかずこれらの人たちは懇談一決、是非天草に分教場を設立し天草島内の未就学の聾児たちに教育の恵みを果させようとの努力を誓った。
そして、その切なる願いをみくに新聞社長吉見教英氏に訴え援助協力を求めた。吉見氏は天草に於ける社会教育や文化事業の識者であり大先達である。もちろん大いに感動賛成し不自由な脚の痛みに耐えながら奔走の結果、分教場設置期成合を作った。同校沿革史によれば次の通りである。
昭和22年1月、天草郡在住の盲聾唖者の未就学児童の未蹴就学の不便を除去する目的をもって、県立盲唖学校天草分教場設置期成会を結成、事務所を天草文化協会内に置く。役員会長 脇山真一(上津浦出身、昭和21年まで県会議員) 副会長 松田保好(郡教育会長) 副会長 吉見教英(郡文化協会長) 理事 肥前周三(郡教育会幹事) 父兄11名
遂に昭和22年4月1日より熊本県立聾学校天草分教場として認可された。
聾学校10周年を迎う(天草民報記事より昭和38年2月24日発行現文のまま)