熊本聾学校の会議室から誕生
終戦の翌昭和21年、初夏のある午後 熊本県立盲唖学校(現在の県立熊本聾学校)の手狭な会議室で数人の先生たちが終戦後の教育の動向に応えて、この目や耳の不自由な子どもたちの教育について種々会議していた。
「やっぱりこの特殊教育も義務教育にならねば嘘だ。」
「義務教育になっても 天草あたりのように海山隔てた僻地の子供が50%も熊本に出て就学するかは大きな疑問だ。」
「それもそうか…‥・。やはり是非もなしか。」
敢えて希望と期待を振り起こして一案を述べても 結局は、どうしようもない、あきらめに沈み勝ちな会の空気であった。
その頃盲唖学柁は、県下で熊本市に唯一校しかなく、義務教育でもない頃 この学校に県の周辺地区から入学する者は珍しいくらいで、まして 天草地区からの就学者は30%にも満たなかった。寮や寄宿舎や下宿に居住してまで就学することは、盲聾児の家庭にとって 物心両面からあまりにも重い負担であった。
「夢のような話だがせめて天草に盲唖学校の分教場を設けたら‥・・‥。」
ふとした思いつきのような言葉ではあったが 話の糸を絶つまいと努めていた緒方教頭(現在校長)の発言は不思議に、緩みかけた会の話題を緊きしめた。『もし出来たら…・・。』と祈るような期待で顔を見合わせた。
「夢のような話でも 必要と思うことは実現に努力するねうちがある。」
小村校長の誠意をこめた発言から会の客囲気が盛り上がって、また一しきり討論が続き 会は予期しない方向に−しかも望ましい重大な結論を得たのであった。こうして夢のような願いは夢ならぬ現実の構想計画にと具体化していった。
分教場設置への意欲を盛り上げ、地元の協力を求めるため 天草の本渡で聾生(熊本聾学校)の学芸会が開かれたのは)それかち問、もなかった。耳が聞こえず もの言えぬ生徒と思われている子どもたちが「天女の羽衣」を美しい調べにのって踊ったり上手に本を読んだり、中でも舞台で小さな子供の公開授業をしたときは、割れるような拍手と共に人々の眼に熱いものが光っていた。、観衆の「唖の子が」という思いは「唖の子でも」という意識に変わった。軽視から驚異ヘーそしてこの「教育」に対する敬意へと高まっていった。
聾学校10周年を迎う(天草民報記事より昭和38年2月24日発行現文のまま)