中国切手の楽しみ

 中国切手は、発行主体が大きく「清朝」「中華民国」「中華人民共和国」の3つに分けられ、それぞれが様々な切手を発行している。「清朝」の蟠龍切手、「中華民国」の孫文切手、「中華人民共和国」の普通切手等について、解説記事を掲載する予定です。

初に、中国の郵便の歴史を追ってみましょう。

各国で切手を使用した近代郵便が始まったのは19世紀中頃であるが、当時中国を支配していた清朝における郵便制度には、政府の公文書を送達する駅站と民間の郵便逓送組織である民信局(日本の飛脚のようなもの)があった。やがて、清朝が徐々に開国し、外交上の文書や報告の逓送が必要になると、それまでの駅站では対応ができないため、1876年に公文書等を送付するための機関である文報局を設立し、徐々に駅站の業務を担うようになった。この機関は、辛亥革命の頃まで存続した。図1は1909年に北京から当時満州とよばれた地方の奉天に宛てられた文報局の郵便物である。
民信局の歴史は古く、15世紀頃からで、手紙以外に為替や貨物の逓送も行い、全盛期には、東南アジアやアメリカ西海岸までつながるネットワークを構築していた。清朝の国家郵政が始まってから徐々に淘汰され、1934年に全面的に営業停止となった。図2は1895年に寧波から営口に宛てられた民信局の郵便物である。

1842年に南京条約が締結され上海等が開港し、1863年に上海共同租界が成立し工部書信館が設置された。工部書信館は租界の外国人によって運営された郵便組織で、アモイやチーフー等の開港地を結んだ郵便ネットワークを持ち、1865年には中国として最初の切手「大龍」(図3)を発行した。この切手は、後に述べる「大龍切手」と区別して「上海大龍」と呼ばれる。この郵便組織は、清朝の国家郵政が発足した1897年に国家郵政に接収された。

1866年、当時の各開港地に置かれた清朝の税関である「海関」に、北京の在外公館の文書を逓送するため郵政業務を担わせることになり(「海関郵政」と呼ばれている)、主に開港地の外国人の郵便物を逓送していたが、1878年にその最初の切手「大龍切手」(図4)を発行した。このシリーズは、7〜8年使用され、その後大きさが一回り小さくなった「小龍切手」(図5)、義和団事件で有名な西太后の60歳の誕生日を記念した「萬壽紀年切手」(図6)を発行した。図5のカバーは牛荘から英国に宛てられたものだが、1900年代初頭までは中国切手だけでは外国への逓送には効力がなかったため、中国各地に置かれた外国郵便局を経由して逓送することになるが、郵便物にはそれらの国の切手を貼らなければならなかった。これらの外国郵便局は「客郵」と呼ばれたが、招かざる客の郵便であった。

1897年「海関郵政」は清朝政府に移管され、暫定的な加刷切手である「洋銀加刷」(図7)、「紅印花」シリーズが発行された。このうち「紅印花小字1円」(図8)は発行枚数が50枚と推測されており、中国切手の王様として有名である。この年、国家郵政の正刷切手とし日本の築地活版印刷所で製造された日本版蟠龍切手(図9)が発行されたが、翌年にはロンドンで製造されたロンドン版蟠龍切手(図10)に切り替わった。図11は、その使用例(不統一印を消印に使用)であるが、1897年に国家郵政が発足した時に、全国で30局程度しか郵便局がなかったが、1899年から清朝崩壊までの約10年間に急速に拡大を続け、中華民国に入ってからの統計(1914年)であるが、簡便な郵便取扱所である信櫃も含めて、1万局を超える郵便局等が設置された。したがって、この時期の郵便物で初期のものや小局の消印に不統一印が使用され、収集家の興味を引き付けている。

(〜続く;飯塚博正)

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