日曜になると、葛西駅から地下鉄に乗って日比谷図書館まで 二人ででかけました。東西線では地下にもぐるまえに、川をわた ります。川を渡るときには、子供を抱き上げて川を見せます。 本当は川に触らせるのがいいんでしょうが、わたしには光って いる川が川の一番川らしく見えるときです。川というものは光 ってまぶしくて直視していられないというのが正しいように思 います。
 わたしはバッグに借りていた本をつめていて、子供のリュッ クにはおむつとズボンの替えやタオルがはいっています。とき にはここに書かれているようにパンももっていって公園のベン チで二人で食べます。公園はとても静かなのです。カラスが鳴 いたりするのが、またひどく静かな感じにさせるのです。  子供の命名の過程をここで書いています。顕彰という名前は わたしの親からは難しい名前で漢字の書き取りのようだと評さ れ、お寺の子かと誤解されることも多いようですが、クッキー を食べたときのサクッとした歯ごたえが呼び名に隠されている ようでなかなかいい名前だと自賛しております。クッキーケン ショウ、サクサクッ。ほらなんとなく似ているでしょう。では、 どうぞ。

日比谷公園で

パパ、そこに座る 
自分が先に座ったベンチのすみっこで 
きみはぼくにそう言っただろう 
だからぼくもきみの横にお邪魔して 
きみの背中からリュックをおろしてあげたのだ 
ぼくがぼくであることのほかに 
きみのパパも兼業することになってはやくも百週を経た 
きみはして欲しいことの全部を 
《その人への呼びかけ、して欲しいことの内容》 
の形で命令できるようになり 
したくないことをしないと返答して拒否できるようになっている 
このカラスのいる公園にくるたびにきみは 
散歩道に沿って立ててある半円の垣根を越えて 
植物たちの背に隠れにいく 
おい、からすたちはなんて鳴く 
カラスはカー、カーって鳴くねえ 
枯葉を踏みながら歩くことが好きなのだろうか 
それともぼくには届こうとしないなにかの芳香が 
きみには親密に耳打ちしているからだろうか 

さっきは噴水の前を横切ろうとしていたら 
ビデオカメラを抱えた一群が擦りよってきて 
ぼくにスポンサーのせんべいを渡しながら 
お父さんとお子さんが 
一緒に笑っているところのモニターを撮らせてください 
ああ、いいよとぼくはうなずいて 
きのこのような一人ベンチによじ登っているきみを呼んだのだ 
おおい、顕彰、おいで 
せんべい食べるよ 
食べ物を勧められると決して拒んだことのないきみは 
おおいそぎでぼくのそばに戻ってきて 
ぼくはせんべいを笑いながら食べたけれども 
きみは即応できなかったらしいな、顕彰 
ぼくはいまきみを顕彰と呼んでいて 
きみももう自分のことをそう呼べるようになっているが 
あのころのきみにはまだきみだけの名前というものがなかったのだよ 
あのころというのはまだきみとぼくとがこんなふうに 
日比谷公園の池を見下ろすベンチに腰掛けて 
細長い三食パンを両端から半分ずつ食べて 
まだ食べるかと聞くときみがうなずくから 
真ん中の一個をまたおなじだけ半分ずつに分けるほど 
きみが成長していなくて 
ぼくもまだかくあるべき父親として 
子供と友に散歩するのが好きにならなければならないのだろうかと 
あらかじめ思い悩んだりしていたころのことだ 
きみはまだ川畑ベビーと記されてあったころのことだ 
ぼくはその川畑ベビーにどのような名前をつけるかで悩んでいた 
もっと正確を期すならば 
ぼくのいくつかの腹案がことごとく反対されたので 
少々むくれながら新たな名前に取り組んでいたのだ 
ぼくはきみを若と呼びたい思っていたのでまずは若づくしで 
最初にできた子供なので当たりくじのように一若、 
これからいさおしく人生に出航するので若丸、 
なにはなくとも弾んで生きるべきなので鞠若、
虚栄を排してしぶく生きるべきなので単彩の墨若、
などなど 
しかし妻は強硬に反対して妥協のテーブルにつこうともしなかった 
椅子にさえ近づかなかった 
彼女はなにをそんなに恐れていたのだろうか 
じつのところきみがもし女性として生まれてきたならば 
間隙を縫ってきみはあずさと名付けられてしまうところだったのだ 
どこかで聞いたことがある名前だろう 
そうだ、ぼくと彼女の間では永遠に機会を失ったその名前は 
きみの黄色いセルロイドの起きあがりこぼしへと譲渡されたのだ 
そうとも、きみが立てるころには投げ回して遊んだので 
後頭部がへこんでしまったあの人形だ 
あの人形があずさという名前だったのには 
こんな訳があったのだ 
ぼくはきみはどうしても男の子のような気がしていたので 
男の名前だけを用意しておいても良かったのだけれど 
もしかしてきみが女の子だったりして 
万が一にもそんなことがあったりすると 
初めからきみにはずれの人生を与えてしまうことになるから 
だれに聞かれても 
男の子がいい、女の子がいいと聞かれたときには 
生まれてくる方の勝手ですから 
ぼくにはわかりませんと答えていた 
それでできるだけ派手な名前の方がいいかなと思って 
そっちの路線で考えていたんだけど 
やっぱり本人を見てからの方が 
リアリティがあるんじゃないかなと 
きみと会うまできみの名前を考えるのを中止していたんだ 
きみはいい表情をしていたぜ 
自分が生まれてきた理由を覚えているためか 
じつに謙虚な表情をしていた 
きみはおたがいにこの濁世で成長しましょうよってな目で 
ぼくのことを見ていたよ 
透明な、ね、そんな挨拶が聞こえたよ
あなたの子供という立場を選びましたので 
ひとつ、ここんところはよろしくって 
そんな人格あふれる表情がありましたよ 
どうしたらあんな感じがきみの名前にでてくるだろうか 
どうしたらあんな透き通ったような呼び名が作れるだろうか 
まずはさしすせそを使う必要があるとぼくは思ったね 
直感だよ、もちろん 
きみの顔をみたときに 
この子はサ行の呼び名を含むんだ! 
とひらめいたね 
詩人の直感だからねえ、なんといっても 
もう揺るがしがたものがあるんだよ 
そうなるとなにかなんでもさしすせそなんだよ 
詩人なんてなんといってみてもさ 
思い込みを辞書に巻いてさすらう板前みたいなもんだからね 
思い込まなきゃなにもできないんだよ 
で、とにかく、思い込んだわけよ、いつも通り 
さしすせそ、さしすせそっていいながら 
漢和辞典をめくっていくわけよ 
そうすると画数順にならんでいる漢字のだね 
熟語をだね 組み合わせたり 
上下を逆さにひっくりかえしたりしながらだね 
名前をひねりだそうとするわけだよ 
川で砂を洗って砂金を探しているようなものだよ、まったく 
あるかどうかわからないけどかならずあるっていう 
そのきみの名前に向かって 
ひとつずつ漢字を掘り起こして 
水で洗ったり光にあてたり 
ルーペでじっくり観察してみたりというような 
骨の折れる作業をだね 
やったと思うか、このぼくがだよ 
詩人の直感を持つぼくがだな 
そんな地道な努力をするはずがないだろうっていうの 
だってわかるんだもん 
さしすせそを使って、透明感があって 
なにか目標のある熟語なんてちょっと探せば 
あるところには転がってるんだって 
もちろん、ないところにはないよ 
ないところにはないけどあるところにはあるんだよ 
それでア行の漢字のいくつめだったかな 
いまちょっと辞書をひっぱりだしてみるかな 
そうすると音訓索引の1ページめにすでにだな 
あきらかっていう項があって 
ここに 
彰という文字がでてくるわけ 
この彰から7文字先のところに今度は顕という文字があるわけ 
この2文字を見つけたときに 
《けんしょう》という音が浮かんで 
KENSHOというスペルが浮かんで 
はい、合格! 
ってすぐにできちゃったの 
けんしょう、
そうだ、あの子はけんしょうという名前だったんだ 
もうほとんどプラトンの想起説なんだけれどさ 
そんなこともう決まっているわけよ 
きみがぼくの子供として生まれてくることも
きみが4月27日に生まれてくることも 
きみがけんしょうと名付けられることも 
そんなところで選択できることなんてないんだよ 
だってそれはきみの魂が望んだことなんだから 
ぼくはただ聞けばよかったのだ 
きみの魂の望みを 
静かに静かな世界の泡立つ宵闇の静けさのなかで 
顕彰、カラスはなんと鳴くと聞くと 
きみは 
カラスはカー、カーと鳴くねというだろう 
それはぼくらを呼ぶときの名前みたいだ 
ぼくがきみに話しかけたくなったら 
ぼくはきみに 
カラスはなんと鳴くと聞けばいい 
そうするときみは 
カラスはカー、カーと鳴くねと答えるだろう 
きみがぼくに話しかけたいときは 
カー、カーって鳴けばいい 
そうすればぼくは 
カラスはたしかにカー、カーと鳴くねと答えるだろう 
ぼくらは声で話ができる 
それはとてもいいことだ 
ぼくらは夕暮れの中でも話すことができる   




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