東人の出戻り生活/関東見聞録/出戻り見聞録(1)
娘が船橋市の小学校に転校して授業が始まると、今までと勝手が違うところがあるようだ。
新居浜では、授業の多い6時限までの日には、帰りの時刻は夕方5時頃になっていた。
船橋市の小学校では、授業は最長でも5時限までで、3時には下校する時間割になっている。
娘が早く帰ってくるので家内も驚いていた。
また、1時限の長さも新居浜では45分ぐらいだったのが、30分程度で終わるらしい。
授業の内容についても、生徒を指名して答えさせることが少ないらしい。
先生が質問をして生徒が手を挙げ、指名して答えさせるという、ごく普通の授業が新居浜では行われていた。授業参観に行っても、違和感は感じなかった。
教育の時間や授業の内容については、公立であれば全国どこでも同じかと思っていたが、地域によってこんなにも違うものなのだろうか?。
船橋市での授業が全国的に普通の授業としたら、世間で言われている生徒の学力低下の原因が授業の内容にあるのかもしれない。
駅前は人の通行が多い。
宣伝のビラやティッシュペーパなどを配っている人がいる。夏にはウチワを配っていることもある。
物を貰うのは良いが、うっかりすると募金や署名集めの人に捕まってしまう。
募金や署名はその趣旨を確認して賛同できるか考えなければならず、話を聞いてから断るのもやっかいであるため、あまり関わりを持ちたくない。
人通りの多い所では、これらの活動で通行人に寄ってくる人の動きにも気を配りながら、そのような人を避けて通行しなければならない。
その他、歩道や駅の通路にまで乗り込んでくる違法な自転車にも出くわす。
駅前でボンヤリとはできない。
それぞれの自治体により、ゴミの収集ルールは異なる。
船橋市では、ゴミを出すときの専用の袋が売られていて、それを使わなければ収集してもらえないことを知った。
可燃ゴミの収集は週に3回あり、新居浜の頃の週2回に比べて楽になった。
ゴミの分別の仕方にも違いがあった。
新居浜では、可燃ゴミとプラスチック類は分けて出していたが、船橋市ではプラスチック類も可燃ゴミと一緒に出して良いという。
これまでプラスチックゴミを分けていたため、一緒でも良いといわれても抵抗を感じる。
プラスチック類は焼却する際にダイオキシンが発生するため、可燃ゴミとは分けて収集する自治体が多い。
ダイオキシンは低温での燃焼で発生するため、高温燃焼できる焼却炉ではプラスチックも焼却できる。船橋市の焼却炉は高温燃焼型であろう。
船橋市では、高温燃焼型の焼却炉が導入されてから、分別方法が変わったのだろうか。
あるいは、市民の分別が徹底できないために、焼却炉を変えざるを得なかったのだろうか。
船橋市では地域にもよるが、、可燃ゴミの収集は夜間行われる。
住まいのある地域も夜間収集地域で、夜の7:00までに出すことになっている。
夜間収集ということで、早朝にゴミを出す必要は無くなった。
住まいの近くに川がある。この川にも名前がついてはいるが、水が流れているようには見えず、どう見てもドブ川である。
このドブ川に沿って遊歩道が整備されているが、もう少しきれいな川であってほしいと思うのは贅沢なことだろうか。
そんなドブ川に鯉が泳いでいた。緋鯉が目立ったが、黒い真鯉も一緒にいた。
こんな汚れた川にも鯉が棲んでいることを発見した。
市役所に転入届けを出した時、娘の小学校の転校手続きの書類を受取った。
その書類を持って、小学校に行き、転校手続きをした。
船橋市の中心部にある小学校であるが、一学年が二クラスとのこと。
この辺には小学生のいる家庭が少ないようだ。
この小学校は明治5年創立の歴史の古い学校とのこと。
娘が新居浜で通っていた惣開小学校も100年ほどの古い歴史を持つ学校であったが、ここはさらに古いことになる。
新居浜の惣開小学校は住友私立の小学校の流れを継いでいるが、住友私立の小学校としては明治6年開校の私立足谷小学校にたどりつく。
江戸時代から宿場町として栄えた船橋市の中心部の小学校と、四国の山中、別子銅山の従業員家族のために創られた小学校がほぼ同時期に開校していたことになる。
その後に、家族を連れて通学路を確認しながら小学校に再訪した。
小学校の受付に声をかけると、内部の案内をしてくれた。
図書室に案内されたとき、図書のほとんどがコンピュータの中に納められ、書架には僅かの本しか無かったことに驚いた。
娘は、廊下にセンターラインが引かれていること、トイレの入り口がドアで無く暖簾であったことに気がついたようだ。
学校からの景色は、乱立するマンションなどのビルばかりで、山は見えない。
街中を歩いていると、「中央図書館」と書かれた建物を見かけた。
敷地には庭は無いが、建物としては大きなものと思った。
よく見ると、同じ建物の隣にスーパーマーケットが同居していた。
さらに、遠くから見ると、図書館の建物の上層部はマンションになっていた。
この図書館の建物はどこの所有なのだろうか?。
市の建物でスーパーマーケットやマンションとして市が貸しているのだろうか、あるいは市が図書館のスペースを間借りしているのだろうか?。
近くに 勤労市民センターという建物もあったが、ここでもコンビニエンスストアが同居していた。
転入届けのため、市役所に出かけた。
市役所のある方向に歩いていくが、それらしい建物が見当たらない。
地図を確認すると、途中の交差点で右折すべきだったようだ。
ビルの多い都会では、道から少し外れた建物は見えないため、見落としてしまった。
人口の多い都市であるため、大きな市役所であった。
市役所にて転入届けを行い、住民票を請求して受取った。
次に住民票を持って警察署に行き、運転免許の住所変更を行った。警察署は少し遠いところにあり、バスにて移動した。
住民票などは駅前にある総合窓口センターでも交付されるということで行ってみた。
市役所の出張所と思っていたが、本庁舎と変わらぬほどの大きな所で驚いた。
本庁舎まで行かなくても、駅前で多くの手続きができるようだ。
これから住むことになる船橋市とこれまで住んでいた新居浜市の人口と面積は次のようになる。
|
人口 |
世帯数 |
面積 |
新居浜市 |
127,985人 |
53,299世帯 |
234.30ku |
船橋市 |
555,367人 |
222,092世帯 |
85.64ku |
人口は約4倍、面積は約1/3で、人口密度では約12倍になる。
船橋市といえば、関東地方で同年代を過ごした人なら「船橋ヘルスセンター」を思い出すだろう。
「船橋ヘルスセンター」とは老人向けの保養施設で、風呂やプールがあったらしい。
子供の頃には「船橋ヘルスセンター」のテレビコマーシャルが頻繁に流れていた。
「長生きしたけりゃ 一寸おいで・・・・手足伸ばせば 命も延びる・・・チョチョンのパ」というコマーシャルソングが流れていた。
船橋市といえば、「船橋ヘルスセンター」のイメージが焼き付いていた。
そのヘルスセンターも後には無くなり、だいぶ前からショッピングセンターになっている。
船橋市には妻の妹夫婦が住んでいたが、数年前から妻の両親とも一緒に暮らすようになっていた。そんな訳で、船橋市を訪れることはあったが、人が多くて落ち着かない街という印象を持っていた。
関東に引っ越しをすることになり、そんな船橋市に住むことになった。
引越しの移動の途中、東京駅にて改札を出た。
駅構内を歩いていると、新聞配達の自転車が走っていて驚いた。
駅の構内であるのに自転車を乗ったまま走っているとは非常識な配達員だと思った。
住まいのある船橋市の駅にても、駅の改札を出た人通りの多い通路にて自転車に乗ったままで通行している人を見かける。
駅周辺での迷惑駐輪のことは知っていたが、歩行者の通路であるべき駅の構内でも自転車に乗って通行する者が居るとは驚いた。昔はこんなことは無かったように思う。
一部の歩道には特例として自転車通行可の所もあり、標識で示されている。それ以外の歩道では自転車は降りて押していかなければならないはずであるが、通行の可否も意識せずに歩道を走る自転車は多い。
歩行者としては、すぐ近くのところを自転車が通り過ぎていくとヒヤリとする。
歩道での自転車通行が一般化し、人の通れるところは自転車も通行可という勘違いをして駅の構内にも乗り込んでくるのだろうか?。
船橋市はバリアフリー化が進んでいて、段差のある所にはスロープが併設されている。このようなスロープが自転車を進入しやすくし、障害者を含む歩行者に危険な思いをさせているとしたら皮肉な結果である。
障害者へのバリアフリー化は進めるべきであるが、自転車に対してはバリアを設ける工夫が必要ではないだろうか?。
船橋市について、自転車通行が可能な歩道について標識を確認した。
駅から南側については、本町通りと言われる通りとの交差点付近に標識があったが、「ここまで」と終点の標識であった。反対側は「ここから」と始点になっている。
これより駅寄りは自転車は降りて行かなければならないはずである。
駅から北側についても標識を探したが見あたらない。
市場通りという東西の道との交差点にて、市場通り側には自転車通行可の標識があった。しかし、駅に通じる南北の道には標識は無かった。
すなわち、駅の北側の歩道は自転車に乗って通行はできないはずである。
実際は、こんな標識はお構いなしで、平気で自転車に乗って通行している老若男女が殆どである。
道路交通法 第17条
車両は、歩道又は路側帯(以下この条において「歩道等」という。)と車道の区別のある道路においては、車道を通行しなければならない。
道路交通法 第63条の4
普通自転車は、第17条第1項の規定にかかわらず、道路標識等により通行することができることとされている歩道を通行することができる。
2 前項の場合において、普通自転車は、当該歩道の中央から車道寄りの部分(道路標識等により通行すべき部分が指定されているときは、その指定された部分)を徐行しなければならず、また、普通自転車の進行が歩行者の通行を妨げることとなるときは、一時停止しなければならない。
歩道を歩いている時、後ろから自転車に追突されたことがある。
自転車に乗っていたのはオバさんであった。
「ここは歩道だぞ!」と言うと、そのオバさんは「自転車も通っていいんです!」と言いながら、そのまま行ってしまった。
自転車から降りて謝ることもできないのか!。
賃貸契約したマンションに入居した。
ここのマンションは、事前に下見に来てはいたが、間取りよりも交通の便利さで選択したものであった。
間取りについても、内部を見学した他のマンションに比べたら良い方であった。
入居してみて、住み難さを痛感した。
部屋が狭い。これまで住んでいた3LDKと同じ条件のはずであったが、部屋のサイズが小さい。
畳のサイズは167×84(cm)であったが、新居浜のマンションの畳は、もう少し大きかったように感じている。その前に住んでいた社宅の畳のサイズは、195×96(cm)であり、1.3倍の広さであった。
不動産屋の話では、小さい畳を作って6枚並べたとしても6畳間というらしいが、全体的に狭い感じがする。
以前には置けた物が収まらない。
さらに部屋を狭くする要因に、ドアが全て内開きであることがあった。
内側にドアが開くので部屋の中のスペースが削られる。
洗面所も内開きであり、風呂場の入り口に置いたマットもドアの開閉により潰される。
さらに不便なのはトイレも内開きであること。ドアの開閉によりドアが便座にかする程の設計であり、ドアの直前にはスリッパを置けない。はるか遠くにスリッパを置いてドアを開閉しなければならない。
住む人のことを考えて設計されていなかったのか、法的な規制で内開きにせざるを得なかったのかはわからないが、非常に住みにくい設計の部屋である。
その点でも、前に住んでいた新居浜のマンションは、よくできていた。
こんなマンションでも、家賃は新居浜の頃の倍である。
住宅にかかる費用が増大しにもかかわらず、住宅の質は低下したことを感じた。
千葉県から新居浜に遷ってから約9年にして、関東に戻ることになった。
2003年7月30日に新居浜のマンションから荷物を出し、新居浜を後にした。
引越しが忙しかったことの余韻が残り、また、新居浜から電車に乗って出かけることが多かったため、新居浜を去るという感慨に浸る余裕も無く、到着した電車に乗り込み、電車の中では少し寝ていた。
当面の目的地は、有馬温泉。
新居浜から引越しをする場合、荷物を出した当日は新居浜のホテルに泊まって、翌日に移動する例が多いようだが、荷物出しの当日から移動を開始し、移動の中間点で、以前にも行って良かった有馬温泉にて泊ることにしていた。
新神戸で新幹線を降り、有馬温泉に向かった。
有馬温泉で引越しの疲れを癒して一泊し、翌日に新神戸まで戻って新幹線に乗り、関東に向かった。
新神戸駅で乗り換えのために移動中、意外にも、家内が知り合いに出会った。
新居浜の社宅に住んでいた頃に近所だった人であるが、今は東京に住んでいるとのこと。たまたま神戸まで出てきたときに、移動中の家内とすれ違ったという奇遇であった。
新神戸から新幹線にて東京に着き、東京駅で乗り換えて新しい住居のある船橋市に向かった。
移動した日は、同じ船橋市内にある家内の妹の家に泊まり、翌日に荷物を搬入して、一家の関東での出戻り生活が始まった。
東人というハンドルネームは、「東人の新居浜生活」というサイトを開くにあたって使用した。
神奈川県の平塚市で生まれ、仕事の関係で群馬県に住み、その後は千葉県の市川市で暮らしていた関東人という意味で「東人」というハンドルネームを使用した。
転勤により新居浜に赴任したが、そこでの生活にはは古い良き時代が蘇るものであった。
身近に自然があった。社宅には広い庭があった。そして別子銅山の産業遺産が残っていた。
生活するには申し分のない所であった。
新居浜や周辺の出かけたことなどをホームページの題材とした。
新居浜については、市のホームページコンテストにてグランプリをいただいたページをご覧ください。
あかがねの郷の五輪巡り
このような新居浜にて約9年間生活し、娘の幼年期を新居浜で過ごせたことは幸いであった。
仕事のため新居浜を離れ、関東に戻ってきた。
新居浜生活とのギャップを感じながら、都会の中に埋没されぬようにとも思いつつ、生活を続けている。