Hypnotize <2>
テーブルに置いたコーヒーカップが カチャリと小さな音をたてた。
「温かいうちに飲んでくださいね」
はなから返事など期待してはいない。けれど平井の様子が気がかりで、すぐに立ち上がることも出来ず
苦し紛れに問いかけてみる。
「…朝ご飯 食べられそうですか? 軽いモノなら作りますけど…」
森田の優しさは 人としての美点であると同時に悪党に組する為には決定的な弱点だと平井は知っている。
柔らかな心は些細なことで傷つくし、愛情が深ければ深い程その傷は深く消えづらいものになる。
この世界で情を秤に行動する人間は必ず悪魔に食い殺される運命にあるのだと いくら言って聞かせた所で
この男の本質は変わりはしないのだろう。
修羅場を見るのは明らかだったが 隠し通すことが出来ないことも分かり切っていた。
平井は片手で頭からタオルを引きずり降ろし、シャツ一枚の姿を晒す。
ゆっくりと顔を上げると困惑しきった森田と視線が合った。
かけるべき言葉が見つからず それでもなお微笑みかけようと口元を歪める森田の姿に胸が痛む。
「笑っていられるか? これでも…」
顔を背け首を捻る。シャツの襟が首筋から逃げて、露わになった喉元に森田の視線が張り付くのを感じながら
目を伏せて言葉を待つ。
凍り付く様な沈黙に息をすることすら忘れて。
堪えきれず先に声を絞り出したのは森田。
「 …銀さん …それって… 」
首筋から喉元にかけてその白い肌に染みつく赤い痕。
かっと血が頭に上りまともに思考が出来なくなる。凝視したまま言葉を飲んだ森田は 感情をねじ伏せる様に
膝の上で拳を握りしめた。
不思議なもので森田の怒りを目にした途端 それまでの緊張は剥がれる様に落ちて、
平井の瞳にはいつもの蛇の様な光が戻った。
「…取り引きをした。 この身体で情報を買った。 それだけだ…」
青ざめた森田は唇を噛んだまま身じろぎもせず平井を見つめている。
絡んだ視線は離せない。
……軽蔑するか? それとも殴るか?
無表情の仮面の下でざわつく心を抱えながら次のカードを考える。
……押すか 引くか …それとも逃げるか…
森田の腕がすっと伸び 何も言わずに平井のシャツを大きくはだけた。
視線をそらした平井の身体が緊張で強ばり 触れられるのを拒むかの様に少しだけ肩を後ろに引く。
三つ… 四つ… 昨夜の記憶を残す痕を目にすれば、気持ちはやはり大きく揺れた。
信じろと言われても それ以上の物を考えてしまうのはしかたのない話。
震える指で痕をなぞると 痛みを感じたかの様に平井の肩がビクンと撥ねる。
胸が痛い。最初に沸き上がった怒りが引くと どうしようもない哀しみが湧いてきた。
どう足掻いた所でこの人を自分一人の元に繋ぎ止めることなどできるはずもないのに そうと分かっていてもなお
その相手が男であれ女であれ どんな形であれ 自分以外の誰かと平井が抱き合うことが許せなかった。
愛情以外の計算で簡単に身体を投げ出す事のできる平井の思考に森田はついていけない。
勘ぐれば今の自分の立場さえ打算の上に成立している様で 何を信じていいものか分からなくなっていく。
平井にとって自分は一体何なんだろう… 考えると苦しくてたまらなかった。
「銀さん… 俺 頭がおかしくなりそうだ…」
白い胸に額を押し当て 抱きしめながら囁いた。
情に激するかと思っていた森田の 予想外の静かな反応に、平井は戸惑い途方に暮れる。
これならいっそ なじられ責められた方がよっぽど気が楽だった。
いずれにしてもこの男の反応はいつも平井の期待を裏切る。そして彼の前では自分自身も普段の自分らしい
冷静さを失っていることに時折気付く。
「お節介は分かってるけど アンタの仕事に口出しするつもりはさらさら無いけど…
お願いだから 自分を物みたいに扱うの やめてください…
そういう言い方されると 俺 めちゃくちゃ辛いです…」
胸の上で動く唇の感触に 何かが流れて溶けた。
「…すまん…」
言葉はするりと口から零れた。
「あやまんないでください。 アンタらしくない…」
胸にかかる息で 森田が少し笑ったらしいことが分かった。
この男にはバレている。平井も顔を歪めて笑った。
どんな謝罪の言葉を並べた所で これから先も必要とあれば いつ何時でも平井はあらゆるものを自分の武器と
して使うであろうということも、またそれとは裏腹に今現在 目の前にいる森田に対して心底誠実でありたいと願って
いることも。
森田の唇は鎖骨の上に咲いた赤い痕にたどり着く。
「…でも俺 やきもち焼きだから こういうの許せない…」
言葉が消えると同時に平井が悲鳴の様な声を上げた。
染みついた痕に森田は歯を立て血が浮く程に吸い上げる。
「森田っ! や …やめろ!」
ゆらりと身体を起こした森田の唇に滲む血の色を目にして平井は言葉を失った。
「いやだ… 止めない… 全部消す… アンタの記憶も一緒に…」
心が震えた。
身動きが取れぬ様に押さえ込まれ 喉元に齧り付く森田の荒々しい呼吸に恐怖すら感じながら、
このまま殺されてもいいと 一瞬本気で平井は考える。
赤木の毒を この男は自分の熱で塗り替えようとしている。
刻みつけられるのがお前のしるしなら それもまた良しとしよう。
お前が望むのなら この身体全てくれてやろう。
腕を絡め譫言の様にその名を呼びながら堕ちていく。
たとえその先には破滅しかないとしても お前と一緒なら…
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Date 2006 ・ 12 ・16
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