幻惑


 尻尾のように揺れる黒い髪が遠ざかっていく。
「…行くな! ここにいろ…!」
肺をしぼり血を吐く程に叫んでいるはずなのにその声はまったく音にならない。
もどかしさに胸を掻きむしる間にも その後ろ姿はどんどん小さくなって 
やがて目の前から 消えた…。

 


ぼんやりと浮かび上がってくる意識。気付けば熱い物が頬を伝っていた。 
軋む身体の痛みに呻きながら平井は瞼を開ける。



 翼を失ってからの彼は、寝る間を惜しんでの追跡や張り込み、そして流血沙汰必至の修羅場での立ちまわりなど 派手なヤマに好んで自分から出向くようになっていた。
年は重ねても体力には自信があった。しかしそんな面倒な事はここしばらく若い連中にまかせていたことで、いくら体が動くと言っても 流石に翌日には体の節々が痛む。
でも少なくともそうしていれば いらぬ事を考えずには済んだから。

 一仕事終わればネオンに誘われるように、一人夜の街に彷徨い出る。
これまでの彼には考えられない行動も、明かりの灯る部屋と待つ人を失った今では当たり前のことになっていた。
仕事以外では決して人当たりがいいわけではない。ましてや見知らぬ他人に愛嬌を振りまくなど考えたこともなかった。なのに一人酒場でグラスを傾ける自分はいつの間にか何もせぬとも人を引き寄せる事を憶えてしまった。 化粧で年を隠した少女達 親子程に年の違う男達。彼がほんの少し優しい目配せを送れば、その場限りの関係さえいとも容易く結ぶことが出来た。
 そこには勿論愛情も信頼も存在しなかったから 誰も平井の無くしたものを埋めてくれはしなかったけれど、抜け殻同然の彼の肉は 自虐的である以上に暴力的で、その欲を満たすための嘘や軽口などいくらでも使いこなせるのだった。

 次の日には顔すら覚えてもいない相手の上で 自分の業の深さを呪う。そしてここまで堕ちてしまったからには もうあの男の側に居られるわけはないのだと、だから諦めるしかないのだと無理矢理自分に言い聞かせる。
これまでの行状を振り返って見れば、自分のような悪党にこの先どんな仕打ちが待っていようと不思議はない。ただそこで投げつけられるものが 身を裂くような暴力であっても、どんな酷い言葉であっても、あの日自分の元から去っていった男が心に残した傷に比べれば大したものではないように思えるのだった。
 彼はこの世界の悪を憎んで去っていった。でも爪の先まで悪が染みついた自分は、どう足掻いた所でもうここからは絶対に逃れられない。
勝ち逃げは許されないのだ。どんなにぼろぼろになっても灰になるまで…。


「銀さん 少しは年 考えろや…」
安田は時折呆れたように窘めたが、平井は笑って取り合わなかった。




 酷く酔った時には必ず考える。
何故あの時 もっと強く彼を引き留めなかったのだろう と。
首を横に振り 何を言っても自分の目を見ようとしなかった彼を手放すことが、汚れきった自分に出来るせめてもの罪滅ぼし、最上の愛情表現だなどと 何でそんな綺麗事を考えてしまったんだろう。
今にして思えば悔やんでも悔やみきれない。彼が今ここにいてくれたら…
でもそれは もう取り返しのつかない繰り言で しかなく。


 普段はベッドに体を投げたとたん 疲れ果てて泥のように眠り続けるのに、無茶な夜を過ごした次の朝に限って いつも同じ悪夢に追われ目を覚ます。
哀しいまでに真っ直ぐな目をして自分を見つめ どんなに呼びかけても引き留めても
何も言わずに行ってしまう彼の夢を。



 …そしていつも びっしょりと嫌な汗をかいて目が覚める。







 彼が傍らにいた頃は目覚めるたび、枕元に広がる黒髪を眺めては幸せな気持ちになったものだった。
波のように揺れる髪を指先で梳き、指の腹で頬を撫でる。むずがってしかめた鼻先の皺
さえも愛おしかった。


 彼に求められれば何も拒むことなど出来なかったし、自分が求めれば必ず笑って答えてくれた。全てを受け入れてそれ以上に互いを求めていた。
愛していたのに 愛されていたのに 今もそれに変わりはないのに…
窓の外のよどんだ色の空を見上げながらここにはいない彼の事を考える。


 不器用な男だった。駆け出した想いを押さえきれず 呼吸も出来ない程、強く抱きしめられた記憶がまだこの体に残っている。
何度も何度も繰り返し名前を呼ばれた。何千も何万も唇を重ね合った。
心も体も全てを許し 初めて見つけた幸せの中に時間を忘れて浸っていた。


 あの優しい声を柔らかな唇を 今も忘れることはできないのに、
平井は頑として 行方を眩ました彼を追いかけ探そうとはしなかった。
確かに彼を見つけ出し この世界に連れ戻せば自分の魂は救われるだろう。
ただそれは彼を生きながら殺すのも同じことで、自分の欲のために手の中で曇っていく宝石を見つめているなど 平井にはどうしても出来ないことだった。
それ程に無垢な彼の魂を愛していた。




だから 

彼が選んだ結末なら それを受け入れるしかなかった。







ベッドの上で自分を抱きしめる。
目を閉じればあの体温を笑い声をはっきりと思い出すことが出来た。
「…森田…」

欺くことはできない。今でも胸の中にいるのは一人だけ。
溢れ出すものに耐えきれず きつく瞼を閉じて繰り返す。


「   …森田…     
…愛してる…   」



                                 Date 2006. 08. 17
            


                               inspired 椿屋四重奏「幻惑」
         
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森田を失った後の自暴自棄になっている銀さん…
                                            もう そんなに好きなら なんで手放したんだよっ!!
                                                        って思います。 もうっ!!(泣)

                                      この曲に出会った時 これは森銀ソングだと確信しました。(笑)
                                                 ご存じない方はこちらで歌詞が見られます。
                                           http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A01740
                                       楽曲としても物凄く素敵な曲なので、出来れば歌詞を読んで
                                          曲聴いて、もう一度文章を読んで頂ければ嬉しいです。

                         
ベースラインがメチャかっけ〜よぉ!かっこよすぎてコピーできんよぉ!