錬金術師ゲンドウ


 第6話「ストレート、ノーチェイサー」


 正月も6日の小春日和の朝、その電車の中の乗客は不思議な光景を目にして
いた。
 トレンチコートを羽織った三十代前半の男が、眠っている初老の男に話しか
けているのだった。
「わかったよ、わかった。俺がわるかった。2月号で訂正記事を載せるように
編集者に言うから」加持リョウジは言った。彼にとっては、話しかけている相
手は眠っている初老の男ではなかった。
 中年女なのだ。糊がききすぎたような、ごわごわの喪服を着て、子犬を抱い
た中年女なのだ。そいつは、うつむいて子犬をなでているので、顔は見えなか
った。しかし口にはにやにや笑いを浮かべているようなかんじだった。加持リ
ョウジだけにはそう見えているのだった。
「だめですよ。あんたは、また書く。そんな男なんですよ。死にたいんでしょ?
…□□銀行の不正融資、○○教の霊感商法、△△県のゴルフ場建設汚職。みん
なやばい話題ばかりじゃないの。あんたは消されたがっているんだ」
「そんなことはないよ。俺はまだまだやりたいことがあるんだ。…俺を消して、
いくらもらえるんだ?…取引しないか?」
「…はははは。頭の悪い男だね、おまえさんは。魔女が魔法でやることには普
通の法律が適用されるんだ。あたしがあんたを殺したら殺人罪なんだよ」
「じゃ、ひとを四六時中つけまわすのは犯罪じゃないのかい?」
「犯罪じゃないのさ。わたしは実体じゃない。わたしはいま、居間でねそべっ
てテレビを観ているのさ。ポップコーンを食べながらね。本体のわたし自身の
意識には、あんたの顔すら浮かんでいない。まるでロボットのようなもんさ。
わたしはこの中年男に宿った影にすぎない。あんたにはわたしを無視する権利
も自由もあるんだ」
「…ごもっとも」
 魔女と議論するものではない。
 加持リョウジは、もう数え切れないほどしてきたように、その子犬を抱いた
中年女を無視しようとした。
 だめだった。「不思議の国のアリス」に出てくるチョシャ猫のように、女の
にやにや笑いだけがつきまとってくる。
 もう五日も満足に眠っていない、リョウジは思った。狭いマンションの天井
にあの女がいるのだった。天井に逆さまになって座り、編み物を始めるのだ。
起きている方がましだった。ともかく平衡感覚がおかしくならずにすむ。

 電車を降りた。JRの駅のニューススタンドで、熱い缶コーヒーと「カロリ
ーメイト」を買った。
「もっと栄養のあるモン食べなきゃ。野菜が不足してるよ」売り子が子犬を抱
いた中年女になっていた。
「ありがとうよ」
 リョウジは吐き捨てるように言って、地下鉄の階段を下りる。
 行き交う人が順番にあの女に見えた。
 地下鉄駅の壁に、大きなビキニの女の子のポスターが貼ってあった。
「どうだい?スタイルいいだろ?」顔だけがあの女になっている。子犬は背景
の浜辺で寝そべっている。
「着膨れするタイプなんだな」リョウジは言った。

 彼はある地下鉄駅で降りた。ふいに尿意をもよおした。仕方がない。彼は駅
のトイレに入った。中年男が一人入っていた。リョウジは小便用のトイレに近
づきチャックをおろす。
「どうぞごゆっくり」突然となりの便器から女が頭だけをにゅっと出した。そ
のも一つとなりの中年男はまったく気づいていない。見えないのだ。
「おやまあ」女は言った。
「場所をわきまえろ、この馬鹿」リョウジは思わずどなった。中年男は驚いて、
なぜトイレで用を足すのに怒鳴らなければならないのだろう、といった顔をし
て、加持を見つめる。
「いや、失礼。あなたに言ったんじゃないんですよ」リョウジは愛想良く言っ
て、手を洗う。背中に中年男のいぶかしげな視線を感じる。
「ムスコに怒鳴ったんです。元気がよすぎるってね」リョウジは笑いながら言
って出ていく。
 若いなあ…中年男はドアを見ながら手を洗う。

 1月のはじめだというのに、まるで春の陽気だった。加持はのんびりと街を
歩いた。歩いている間は、影のように寄り添う犬を抱いた魔女の幻は気になら
ないのだ。
 しかし、ずっと歩いているわけにはいかないな、彼は思った。このままだと、
おかしくなっちまいそうだ。なんとかしなければならない。彼女が、力になっ
てくれればいいのだが…。

 その店は、裏通りにあった。
 階段をおりて地階のマホガニーの扉を開けようとする。ふとコンクリートの
壁に、見慣れた女のポスターが張られているのが目に入った。
 『ミサト・カツラギカルテットNEW YEAR LIVE!』と書かれた文字の上に、
彼女がアルトを吹いているモノクロームの写真。
「おや、音楽鑑賞かい?」壁からにゅっと中年女の上半身が飛び出してきて、
そう言った。
「そうさ、魔女に呪われていても心のゆとりを大切にしたいもんでね」
加持は薄暗い店内に入った。ライブの時間にはまだ早い。彼はカウンターに
座った。
「うふふ、なんにしましょうか、お客さん。メチル・アルコールの良いのがあ
りますけど」痩せたバーテンダーがゆっくりと中年女に変貌を遂げていく。
「いや、『フォアローゼス』をストレートで。追い水(チェイサー)はいらな
い」
「あたしっていう追跡者(チェイサー)はいらないっていう洒落かい?」魔女
の幻が言う。
 加持は答えず、タバコに火をつけた。

 3杯目のグラスを空けたところで、店が混んできた。
 やがて、店内がすっと暗くなった。狭いステージには、ドラム・セット、ピ
アノ、ベースが置かれていた。ステージの脇のドアから、3人のバンドメンが
出てくる。驚いた事に、みな人造人間だった。丸くてピンク色のやつがドラム、
背の高い淡いグリーンのやつがベース、背が低く痩せた青いやつがピアノ、そ
れぞれの位置につく。
 だしぬけにベースが、軽快なリズムを刻み出す。ドラムスがそれに早いテン
ポのリズムを乗せ、ピアノがどこかで聞いたコードを弾き始める。
「ミサト・カツラギ!」どこからか声がする。
 男性ばかりの店内に歓声があがった。
 そして彼女が現れた。ノースリーブの黒いミニのワンピース、首からかけた
馬鹿でかいロザリオ、黒くつややかな長い髪。昔とちっとも変わらないな、加
持は思った。
 その女性はアルトサックスを抱えていた。ショートブーツを履いた長い足で
リズムを取っている。店内の何人かの男が口笛を吹く。
 彼女は吹き始めた。おなじみの『ドナ・リー』だった。彼女はテーマを二コ
ーラス繰り返し、即興演奏に移った。腕が上がっていた。加持はカウンターの
向こうでにやにや笑いを浮かべる魔女を無視しながら演奏に聞き入っていた。
 ステージのミサトは、『ドナ・リー』を終えるとすぐさま次の曲を吹き始め
る。こいつもお馴染み『ヤードバード組曲』、そして『ハードイズフリー』。
ミサトの額にはうっすらと汗の玉が浮かんでいた。ミニスカートから長く伸び
た足を開いてアルトサックスを抱えた彼女は、とてもセクシーだった。
 偉大なる「チャーリー・パーカー」の曲を3曲立て続けに演奏した後、ミサ
トはおじぎをして、店内を見渡した。そしてカウンターに座っている加持と目
があった。しばらく間があった。
「…次は、オリジナルのブルースで、題名は…。いま変えました。『女々しい
野郎どものブルース』」ミサトは冷たい声で言った。
 そして、実にモーダルな、変わった曲を吹き始めた。それは、さっきまでの
オーソドックスなバップに比べるとまるっきり違った、まるで「エリック・ド
ルフィー」を思わせる演奏だった。そして最後の部分で、カウンターの方を、
つまり加持リョウジの方を向いて、馬の「いななき」を真似して見せた。店内
に笑い声が上がる。
「サックスも、皮肉も、腕が上がったな…」加持は苦笑しながら、グラスをあ
おる。

 その楽屋は店の奥にある小さな部屋だった。
 加持はドアをノックした。
「どーぞ」ぞんざいな声が奥から聞こえた。俺が来るのを待ち受けていたのだ
ろうか?リョウジは思った。
「ひさしぶりだね」
「帰って」ミサトは楽屋に入って来た男に目もくれず、楽器を片づけている。
部屋の中には「ミサト・カツラギカルテット」の面々、つまり三人の人造人
間がちょこんと座っている。
「のってるぜ」丸いのが言った。
「最高だぜ」高いのが言った。
「クールだぜ」痩せたのが言った。
「…彼らは?」リョウジが言う。
「丸いのが『ラウンド』、高いのが『アバウト』、痩せたのが『ミッドナイト』」
ミサトは相変わらず背を向けたまま、言った。
「よろしく」
「のってるぜ」『ラウンド』が言った。
「最高だぜ」『アバウト』が言った。
「クールだぜ」『ミッドナイト』が言った。
 加持は、ミサトの背中を見おろした。むき出しの細い肩を見た。ミサトは鏡
台に向かって、メイクを落としているのだった。その背後に、加持自身のよれ
よれの姿があった。
「こいつは昔の女、みたいだね。金でもせびりにきたふうだよ、お前さんは」
楽屋の壁に貼られた「ディジー・ガレスピー」の顔が、犬を抱いた中年女の顔
になっている。もちろんその声はミサトには聞こえていないのだ。
「…金なら無いわよ」しかし魔女の言葉が聞こえたかのように、ミサトは言っ
た。無理もないな、リョウジは鏡に映る自分をみながら思った。髪はぼさぼさ、
無精ひげは伸び放題、コートはしわくちゃ。どうみても落ちぶれた男が昔の恋
人に助けを請いに来たように見える。
 しかし、事実としてはそのとおりなのだ。リョウジは思った。
「単刀直入に言おう。…助けてくれ、ミサト。金じゃない。魔女に呪いをかけ
られた」
「…魔女に呪いを?」ミサトは顔をあげ、鏡の中のリョウジを見た。
「そうだ。呪いのエキスパートに『ロックオン』されたのさ。撃墜されそうだ」
「…そうみたいね。何日風呂に入ってないの?」
「そうだな…五日かな」
「何日寝てないの?」
「…同じくらいかな」
「ふーん…で、魔女でもない一介のサックス吹きのあたしにどうしろと?」
「…一緒に暮らしていたとき、君は言った。魔女に知り合いがいるってね。呪
い専門の魔女だと言った。そのひとを紹介してくれないか?魔女の呪いを解け
るのは魔女だけだという。頼むよ」
「…今度は何書いたの?」
「…わからない。いっぱい書いているからね。どれがだれのご機嫌を損じたか
…」
「…あなたは、いつもそうだわ。トラブルを引き起こしてばかり…。覚えてな
い?三年前…クリスマスイブの夜、わたしはケーキやチキンや、シチューを一
生懸命作って、あなたの帰りを待ってたわ。このあたしが、『料理』をよ!ど
れだけ苦労したか!そしたら、あの男たちがやってきて…」
「…」
「あんな恐い思いをしたのは生まれてはじめてだったわ。やつらは勝手に上が
り込んで、料理をむちゃくちゃに…」
「…すまない」
「謝らなくてもいいわ。わたしはかすり傷ひとつ負わなかったんだから。…た
だ恐くなったわ。あなたという男が…。あなたはトラブルに巻き込まれたがっ
てるのよ」
「…そんなつもりはない」加持はミサトの肩に手をかけようとした。
「…近寄らないで!…わたしは『アズ・タイム・ゴーズバイ』を聴いて泣き出
すような女じゃない。あなたとは終わったんだから。…それにあなたは臭うわ
よ」
「…ごめん。これが最後だよ。その魔女を教えてくれないか」
 ミサトは黙った。
「無駄な事をするねえ。あんた。このエブリィ様の呪いを解ける魔女なんかこ
の日本にいるもんかね」子犬を抱いた魔女は『ミッドナイト』という人造人間
の頭にとりついていた。加持はそれを無視した。ミサトを恐がらせたくなかっ
たのだ。
「…いいわ。住所だけは教えてあげる。でもその人はたぶん引退していると思
うわ」
「かまわない。頼み込んでみるよ」
 ミサトは立ち上がり、部屋の隅に置いてあるトランクを開けて、ごそごそと
何かを探し始めた。加持は、なんとなくミサトが座っていた鏡台を眺めていた。
…俺たちが暮らしていた安アパートにも、鏡台があったな、リョウジは思い出
す。部屋の中で女が鏡台に向かって化粧をしているのを眺めるのは、いい気分
だった。
 ふと、鏡台の脇に、『セルマー』のテナーサックスのケースが置かれている
ことに気が付いた。
「テナーなんか吹きはじめたのかい?」リョウジはそう言うと、何気なくケー
スを開けた。
「…ば、ばか!かってに人のものを」
 リョウジは、楽器ケースの中身を見てたじろいだ。分解された銃が入って
いたのだ。ミサトはケースとリョウジの間に割って入ると、ケースをぱちんと
閉めた。
「…まだ、『奴』を追ってるのかい?」
「…あなたには関係ないわ」
「…ここは、許可無く刃渡り三十センチ以上の刀を持ち歩いていても罰せられ
る国だ。グレネード・ランチャー付きのアーマライトを持ち歩くのは良くない
と思うよ」
「あなたには関係ないわ」
「…そうだな」加持はそう言って、ミサトが手帳を取り出すのを待った。幸い
魔女の分身にはケースの中身を見られなかったようだ。
「ほら」ミサトは、手帳のあるページをメモ用紙に書きうつして、加持に渡し
た。
「ありがとう」加持はエブリィと名乗る魔女の分身に、それを見られないよう
に、急いでポケットに入れた。
「もう、帰って。用事は済んだでしょ」
「ああ、邪魔したね…。そうだ。とても腕前が上がったね。演奏、良かったよ」
 ミサトは答えず再び鏡台に向かった。
「さよなら」加持は女の背中に声をかけた。
「のってるぜ」『ラウンド』が言った。
「最高だぜ」『アバウト』が言った。
「クールだぜ」『ミッドナイト』が言った。

 ミサトは、ぼんやりと鏡に映る自分の顔を眺めた。また小皺を見つけた。今
年は「大台」に乗る年なんだわ、と彼女は思った。
 あそこまでよれよれの加持ははじめて見た。目の下に隈があった。あのまま
だと、何日も持たないだろう。魔女に殺されるのではない。自分で自分を殺す
のだ。駅のホームで電車に飛び込むか、高いビルから飛び降りるか?
 どのみち、ろくな死に方はしないだろう。もう悲しくはない。ちっとも悲し
くはない。あのとき、あの暗いアパートの狭い部屋の中に座り込んで、加持の
死にざまをあれこれ想像したときに、いっぱい泣いたのだ。もうたくさんだっ
た。

 ミサトは受話器を手に持っていた。
「…もしもし、碇さんのお宅でしょうか?…ユイさんはいらっしゃいますか」


 次の日、加持リョウジはその家を訪れた。それは高台にある木造二階建ての、
なんの変哲もない家だった。とても引退した魔女の住む家には見えなかった。
 チャイムを鳴らそうと玄関の前に立ったとき、二つの看板が目に入った。
『公認錬金術師 碇ゲンドウ』と書かれた桧の看板が一つ。
『ウィッチクラフト ASUKA 〜あなたの悩みを上級魔女が解決(ハアト)〜』
とかわいらしい文字で書かれた看板が一つ。
 どちらもミサトから聞いた魔女の名前ではなかった。ともかく、住所は間違
いではない。加持はチャイムを鳴らした。
「はーい」中から、少女の声がした。その魔女の娘だろうか?加持は、黒い服
を着た影が玄関の戸をがちゃがちゃやっているのを眺めた。
「なに?」戸が開いて顔を出したのは、青い目の綺麗な少女だった。黒いワン
ピースを着て、頭に赤いリボンを付けていた。そしてなぜか灰色の猿が、彼女
の背中にしがみついて、肩から赤い顔を出している。
「ここは、碇ユイさんのお宅でしょうか?」加持はその娘を見おろしながら言
った。
「…そうですけど」
「…あの、…実は魔法の事で、いや、はっきり言うと『呪い』の事で相談に来
たんですが」
「…あ、あなたの後ろに立ってるやつのこと?」
「み、見えるのかい?」加持は振り返らずに言った。振り返っても、あの女が
子犬を抱いて突っ立っているだけだから。
「見えるわよ。あなたは100メートル先から見ても呪われてるってかんじだ
わ」少女は得意げに言った。『ASUKA』というのはこの娘のことらしい。
「おやおや、お嬢さん、すごいね。あんたは上級だね」加持の背後から声がし
た。
「…そうよ、あんたは…中級ってとこ?」アスカというらしい少女は加持の背
後に向かって話しかけてから、加持に向き直ってこう言った。
「とにかく、おばさまは出かけてるわ。すぐ帰りますから、中で待っててくだ
さい」少女は言った。
 加持は、言われるまま、その家の中に入る。とたんに化学薬品の臭いが鼻に
つく。これが錬金術師の家というやつか、リョウジは思った。
「ちょっと、あんたが入っていいなんて言わなかったわよ」後ろで女の子の声
が聞こえたので、加持は振り返った。見るとアスカという女の子が閉めた戸か
ら、上半身だけあの女がにゅっと突き出ているのだった。
「おじょうさん、それは無理な相談だね。わたしはこの間抜けにくっつくよう
にかけられた『呪い』だ。『呪い』とオサラバできるのは、かけられた奴が死
ぬか、かけた魔女が止めるか、他の魔女によって祓われた時だけだよ」
「そんなの関係ないわ!『呪い』なんか家に入ってほしくない」少女がそう言
うと、肩の猿もいっしょになって歯をむき出し、その幻を威嚇し始めた。する
と魔女の抱いた幻の子犬も,うーっと唸り出す。まさしく犬猿の仲だ。
「じゃ、どうするんだい?」『呪い』はにやりと笑った。
「あんた」突然アスカは加持リョウジの方を見て言った。
「な、なんでしょう」
「あんた、あたしに依頼しなさい」
「なにを」
「あんた、ばか?…『呪い』を祓うことをよ」少女は彼をにらみつけていた。
加持は魔女と争うものではないと身にしみてわかっていたから、思わず、依頼
します、と言ってしまった。
「チャーンス!…いっぺんやってみたかったのよ。宇宙の果てまで吹き飛ばし
てあげるわ」少女は魔女の幻に向かって両手をつきだした。

 そのころ、シンジは古ぼけたローバー114の助手席に座って、ぼんやりと
流れてゆく景色を眺めていた。そして風邪をひいてからこっち、ぼくの身体に
何が起きたんだろうと考えていた。
 モノの臭い、手の感触、風の音までも以前と違っていた。どこかざわめいて
いる感じがするのだ。いま、家の近くの国道の街路樹がゆっくりと行き過ぎて
いるのだが、それらの木々が、風に枝を揺らせながら、ざわざわとおしゃべり
を交わしているような気がした。
 隣で運転する母親の匂いまで変わってしまった。母は葉っぱのにおいがした。
草むらに寝そべっているような感じだった。
 もっと不思議なのは、レイと話が出来るようになったことだった。もちろん
言葉ではない。あたまの中にレイの思いが浮かんでくるのだ。最初は幻聴だと
思った。頭がおかしくなっちゃったんだと思った。でも、心の中で、レイ、ぼ
くの声が聞こえるかい?と念じてみたら、瓶の中の小さな妖精は一生懸命うな
ずくのだった。
「ついたわよ、降りなさい」
 気がつくと家の車庫の中だった。シンジはシートベルトを外して車から降り
た。そして母親のユイととも家の玄関まで歩いていった。

 突然、一陣の風が、玄関の閉じられた戸から吹き付けてきた。シンジはわわ、
と目を覆った。新緑のに香りが辺り一面にたちこめていた。かあさんの匂いを
強くしたような感じだ、少年は思った。
「…!」
 気がつくと、母が自分を見下ろしていた。
「あなた…。風を感じたの?」
「うん。すごい風だったじゃないか!」
「なんで、閉じたガラス戸から風が吹き付けてきたりするの?」
「…あ。…でも、ほんとに感じたんだよ。母さんだって感じただろ」
「…もちろん、感じたわ。…わたしは『魔女』だから」ユイは静かに言った。
「…え?」きょとんとしているシンジの額に、ユイは突然手のひらをかざした。
シンジはその母の手のひらを見つめた。突然、顔が燃えるように熱くなった。
まるで母の手のひらから熱線が出ているみたいだった。
「あつい、あついじゃないか、母さん、何するんだよ!」シンジは後ずさる。
「…やっぱり」ユイは言った。
「なにが、やっぱりなんだよ!?」
「そうね。夕飯のときにでも話しましょう。みんなにも、とくにアスカにも聞
いてもらわなくちゃね」
 そして、母はシンジをおいて、玄関に向かって歩き始めた。

 そのころ、家のなかでは。
 アスカはあせりを感じていた。自分の一番得意とする反撥魔法が、エブリィ
と名乗る『呪い』にはまったく通用しないのだった。
「なんで…!…なんで、きかないのよ!」照準は合っている。斥力も台風を吹
き飛ばしたときと同じくらいの力を込めている。しかしエブリィは微動だにし
ないのだった。
「どうした、騒がしい」まったく、あの小娘が、と思いながら、ゲンドウが実
験室から出てきた。玄関先に突っ立ている加持リョウジは、その長身の色眼鏡
をかけた中年男を見て、碇ユイさんの夫だな、と思った。
「なんだ、あんたは」百科事典のセールスマンにしては身なりが汚すぎるな、
ゲンドウは思った。
 加持はいままでの成り行きを説明する。
「そりゃ、災難だな」ゲンドウはあっさり言った。

 その間も魔女同士の戦いは続いていた。といってもそれはアスカの一人相撲
に見えた。
「…なかなか、効かないねえ。おじょうさん。…しかし、たいした力ですよ。
お若いのにすごい」突然、エブリィはお世辞を言い始めた。
「…それに、とびきりの美少女ときてるから。天は二物を与えたもうたんだね、
こりゃ。いまでもそんなに綺麗なんだから、あと何年もしたら男がほっとかな
いね」

 なによ。これ。アスカは、その言葉を聞いたとたん家の中が薄暗く、狭くな
ったように感じた。なぜか肌寒い。『とびきりの美少女』。『綺麗』。『何年
もしたら男がほっとかない』、それらの言葉たちが頭の中をぐるぐると回って
いるのだった。突然すぐ後ろに立っている加持と名乗る男の視線が気になった。
自分のお尻をじろじろと撫でるように見られているような気がした。やめて。
アスカは振り返って、スカートを押さえた。『美少女』。今度は玄関先にのそ
っと立っているゲンドウが目に入った。自分のバストのあたりをじろじろと見
ているような気がした。色眼鏡の奥のスケベたらしいギョロ目で。やめて!ア
スカは胸を押さえてうずくまる。やめて、見ないで。『何年もしたら男が』。
いや。いや。いや。もうこれ以上大きくなりたくない。大きくなったら。大き
くなったら。あれに。アスカは『蒸気人間』のしゅぽーっという音が聞こえて
くるような気がした。やめて。彼女は丸くなった。
 
「どうしたんだい」加持は突然うずくまってしまった少女を助け起こそうとし
た。
「汚い手で触らないで!」少女はその手をはねのけた。

 そのとき玄関の戸が勢いよく開いて、四十代前半の女性が入ってきた。『呪
い』はすっと家の奥の二階に続く階段の上に移動し、ちょこんと腰掛ける。
「お久しぶりだね。ユイさん。やっぱりここはあんたの家だったんだね」
「ご機嫌いかが。エブリィ・エブリホウェア。今日は何のご用かしら?」
「いえね、その男にくっついてきたら、その可愛い魔女さんがね…」
 ユイはうずくまり、震えているアスカに一瞥をくれると、明るい声で言った。
「…あら、この子は、がさつで、気が強くて、いけ好かない子ですわ。炊事洗
濯は手伝ってくれたこともないし。こんな子をお嫁さんにする男の人が気の毒
に思えるぐらいで…。家にいる四年間ですこしは女の子らしくなってくれれば
いんですけど…」
 それを聞いていたゲンドウは心の中で、そのとおり、とうなずいていたのだ
が実際にしたわけではなかった。アスカに見られるのを警戒していたのだ。

 うずくまっているアスカは、一瞬むっとしたけれど、まるで霧が晴れるよう
に、気が楽になった。あたし、一瞬『呪い』をかけられたんだわ、と少女は思
った。それをおばさまが、言葉だけで祓ってくださったのだ。

「さあさあ、ごらんの通りのボロ屋でおまけに散らかってますけど、どうぞ居
間のほうへ」
 その言葉で、エブリィはいきなり実体化した。いままで気配だけを感じてい
たゲンドウの目に、子犬を抱いた中年女の姿がはっきりと見えた。
 ぶ、ぶっさいくなおばはんやなあ。ゲンドウは思った。ゲンドウは大学が京
都だったのでたまに関西弁で思考する。
「ああ、ありがとうね。ユイさん」エブリィという『呪い』は居間へ向かって
すーっと幽霊のように移動する。
「…あなたが加持さんね?」ユイは早口で話しかけた。
「どうしてぼくの名を」
「ミサトから電話があったのよ。あなたのことを心配してたわ。さあ、アスカ
との契約を取り消して、わたしに依頼しなさい」
「ミサトが…。で。…どうすれば?」
「口でその通り言えばいいのよ」ユイは靴を脱ぎながら言った。後ろから中学
生ぐらいの背の低い男の子が入ってきた。息子らしい。
「急いで!アスカとの契約を継続していると、仕事を邪魔した報復としてこの
家が汚染されるわ!」
「…わかりました。わたし加持リョウジはアスカさんとの契約を破棄し、碇ユ
イさんに依頼します」
「…結構。じゃ、見てて」ユイは居間へとゆっくりと歩いて行く。アスカは顔
を上げて、意外な面もちでユイの威厳に満ちた後ろ姿を眺めている。あれが「プ
ロ」というもんなんだろうか。

「とうさん、なに?」シンジが玄関にしゃがみ込んでいるアスカと、立ってい
る見知らぬ男を見ながら父に言った。
「呪い専門の魔女同士の戦いだ。こんなもん、めったに見られんぞ」ゲンドウ
は楽しそうに言う。
「あんたも見たかろう?」ゲンドウはリョウジにあがれと手招きした。
 
 ゲンドウ、リョウジ、シンジ、アスカ(+モン吉)の四人と一匹はぞろぞろ
と居間に歩いて行った。
 シンジは、居間の中からむせかえるような「葉っぱ」の匂いがしてくるのを
感じた。四人と一匹は部屋の中をそおっと覗きこむ。
 居間のソファに、あの犬を抱いた魔女が座り、にこにことしている。ユイは
そんな魔女の幻の前のテーブルに湯気の立つティーカップを置きながら、貰い
物なんですけどクッキーでも召しあがる、などときいていた。

「…もう戦いが始まっているんですか?」加持は隣にいるゲンドウに小声で話
しかけた。
「そうだ。『戦い』といっても、女同士とっくみあいの喧嘩をするのではない。
わしも詳しくは知らんが呪い専門の魔女の戦いの武器は『言葉』なのだ。『言
霊』といってもいいな」
 リョウジと二人の少年少女は、ゲンドウの説明にそろってうなずいて、部屋
の中を覗きこむ。

「まあ、ユイ素敵なおうちね。うらやましいわ。広くて、静かだし」エブリィ
は言った。後ろで聞いていたシンジは、この家の狭さや黄ばんだ壁紙や、破れ
た障子のことが気になりだした。
「あら、とんでもないわ、エブリィ。この家は築二十五年、もうボロ家ですわ。
あの、お転婆娘と馬鹿猿が居候になってからいっそう手狭で」
「おばさま、あんなこと言ってる」アスカは言う。
「そら、『言霊』でお前さんを護っているのだ。さっきと同じだ」ゲンドウは
言った。
「そういえば、一緒に帰ってきたの、息子さん?」
「ええ、シンジって言います」
「まあ、賢そうなおぼっちゃんで。将来が楽しみでしょう」
 シンジはとたんに、こんな取り柄のないぼくは将来どうなるんだろうと思っ
た。
「とんでもない、エブリィ。あの子の成績は250人中198番なんですよ。
かといって運動が出来るわけじゃなし。このままだったらろくなものになりゃ
しないって心配なんですよ」
「とうさん、あんなこと言ってるよ」
「だから、あれはお前を護っておるのだ。バカモノ」
「それからあの背の高い方がご主人。うらやましいわ。優しそうでハンサムで、
それに錬金術師っていったら高収入で」
 ゲンドウは、ふふん、そのとおりだ、と思った。ゲンドウにはこのタイプの
呪いは効かないのかもしれない。
「それこそ、とんでもないわ!エブリィ。あんな穀潰し、この世にいませんわ!
わたしがお尻を叩かなきゃ、一グラムだって金を作らないんですよ!あたし、
最近思うんですよ。言い寄ってくる人は何人もいたのに、なんであんなのに騙
されたんだろうって」
「にゃ、にゃにおう!」
「…とうさん!」
「…おじさま!あれは『護ってる』んだって自分で言ったじゃないですか」
シンジとアスカは、飛びだそうとする大男のゲンドウを、まあまあまあと押
し戻した。

 ユイは懸命に防戦につとめながら、現役だったころの感覚を取り戻しつつあ
った。言葉が心の奥から湧いてくるような気がした。『呪い』では日本で一二
を争うほどの実力の持ち主と言われた独身時代のことを思いだした。

 ユイはエブリィに気づかれぬように大きく息を吸い込み、反撃を開始した。

 ユイは堰を切ったようにしゃべりだした。まずエブリィの服を褒めた。肌の
つやを褒めた。いつまでもお若いわ、エブリィ。彼女が言うたびに、ゲンドウ
の木造二階建ての家からはるか離れた、高級マンションの一室で、ポテトチッ
プスをほおばりながら寝そべっていた中年女は、自分のだらしない服装や、で
っぷりした体型が気になりだした。自分を護ろうと謙遜の形をとった『言霊』
を発しようとしたが、ユイはその隙を与えなかった。
 可愛いわね、その犬、名前は「ユービック」というの?まあ。そうそうそう
いえば…。エブリィが答えようとするのを、まるで闘牛士が牛をかわすように、
彼女の身内を褒め始める。ユイは立て続けに、エブリィの甥の公認会計士をし
ているノーマン・ノーホウェアのことを褒めちぎった。富豪の息子に嫁いだば
かりのいとこのエルシィ・エルスウェアのとこを褒めちぎった。祖父のエニイ
マン・エニイウェアを褒めちぎった。

 これらの一方的な会話は魔法の素養がない加持リョウジにとっては、まるで
ただの主婦たちの井戸端会議にしかみえなかったが、実は高度な魔法の戦いな
のだった。
 おばさま、圧倒しはじめたわ…。アスカは気がついていた。明らかに魔女の
幻は薄く透き通って見えてきた。
 シンジは、葉っぱの香りがますます強まったのはなぜだろうと考えていた。
後で教えられるのだが、それは『魔法』が呼び覚ました仮想的な感覚なのだっ
た。しかしいまのシンジはそんなことを知る由もない。
 ゲンドウは、「穀潰し」と言われたことを根に持っていた。

「…じゃ、じゃあ、ユイ楽しかったわ。もうおいとましないと」ついに魔女の
幻は言った。
「まあ、どうしたの?ゆっくりしてくださればいいのに」ユイは言う。
「いえ、用事を思い出したものだから。じゃ、みなさんによろしくね」
「ええ、またいらしてくださいね」ユイは微笑んだ。どうみても人の良い主婦
のようであった。魔女の幻は犬とともに虚空にかき消えた。

「…ふう。…アスカ」ユイは幻が消えるのを確認してから言った。
「なんです?」
「…あなた、魔法アカデミーで『呪い』は一切やってなかったのね」
「…はい」アスカは正直に答えた。
「なぜ?『呪い』には『言霊』魔法で、ってのは初歩の初歩よ」
「呪いが嫌いなの!…あ。ごめんなさい。どうしても好きになれなくて」
「いいのよ。…それは派手な魔法に比べれば卑劣でせせこましく見えるでしょ
うけど、呪いで苦しむ人を救えるのは、呪いの出来る魔女だけなのよ」
 べつに力強い調子で言ったわけではなかったが、シンジはそんな母に毅然た
るものを感じた。かあさんってすごい人なんだ…シンジは思った。とうさんが
頭が上がらない理由がわかったような気がする。

「加持さん」ユイはリョウジに向かって言う。
「…あなた、何を書いたの?…あの人は日本の普通の政治家や企業が雇えるよ
うな人じゃないわ。魔法界に関係あるスジの依頼でないと動かないと思う」
「…ミサトは何か気づいていましたか?」加持は言った。
「いいえ、たぶん」
「『インヴォルブド・ピープル』について書いたんですよ。いやさわりだけな
んですが。おそらく取材が誰かのお気にめさなかったのかも。すみません、こ
れ以上言えません。あなたがたに迷惑がかかるかもしれない」
「…馬鹿な事をしたな」ゲンドウが言った。
「それは、ミサトの両親と関係あるの?」
「いえ…直接には。これはミサトに内緒にしておいてください。とにかくあり
がとうございました。あらためてお礼にまいります」
「いいのよ。でも忘れないで。ミサトはあなたのことを心配していたわ。別れ
たって聞いたけど、彼女を悲しませるようなことはしないで」
「わかりました」

「『インヴォルブド・ピープル』てなんだよ?」シンジは、加持という男が家
から出ていくのをなんとなく見送りながら、そばにいたアスカに尋ねた。
「…そんなことも知らないの!馬鹿!」アスカはすたすたと二階に上がった。
クリスマス前に占い専門の感じのいい魔女から告げられた事が引っかかってい
るのだった。あの少年の凡庸な、特徴の無い顔を見ていると、無性に腹が立つ
のだった。

 とある部屋の中の電話のベルが鳴る。
「電話だよミサト」『ラウンド』が言った。
「電話だよミサト」『アバウト』が言った。
「電話だよミサト」『ミッドナイト』が言った。
「はいはい」特殊な弾丸の手入れをしていた、葛城ミサトは受話器を取る。
「やあ」
「切るわよ」ミサトは受話器を置こうとする。
「まってくれ。おかげで助かったよ。礼をしたいんだ。食事でもどうかな?ユ
イさんにどんなお礼をしたら良いか聞きたいしさ」
「…」
「どうだろう?」
「…目黒、『煉瓦亭』、サーロインステーキ、300グラム、焼き具合はレア
で…」ミサトは低い声で言う。
「エビスビール飲み放題」リョウジは続ける。
「…じゃ、金曜日のライブの後に店に来て」
「了解」

「アスカ、そこの醤油取ってくれ」
「はい、おじさま」
「ねえ、あの『イン…』」
「うるさいわね!」
「ちょっと辛いな」
「そんなことないと思うわ、おじさま」
「ふん」
「みんなに話があるのよ」ユイは言った。
 ゲンドウとシンジ、アスカとモン吉は一斉にユイを見た。ひとり『シゲル君』
だけが、どんぶり一杯の杏仁豆腐を黙々と食べている。この人造人間は何がい
いのか「杏仁豆腐」に醤油をかけて食べるのが大好きなのだった。

「単刀直入に言うわ。シンジは『魔法使い』よ」
「えええええっ」素っ頓狂な声を上げたのは、意外やシンジではなく、アスカ
だった。シンジは、あのクリスマス前から自分の身におきた異変の原因が分か
ったことに、安堵感を覚えていた。
「ふむ…。こいつがか?」ゲンドウは言った。おむつが取れるのも遅かったし、
カタコトを卒業するのも遅かったうえに、『魔法使い』として目ざめるのも遅
かったな、と思った。
「…まちがいないの!」アスカは叫んだ。なんで怒ってるんだろう、とシンジ
は思った。
「間違いないわ。魔法を魔法として感知できる人間は、『魔女』か『魔法使い』
だわ」
「どの程度なの?『メイジ』?『サモナー』?『ネクロマンサー』?…まさか、
『ソーサラー』?…冗談でも『ウィザード』なんてことはないわよね」アスカ
は口早に『魔法使い』の種類を並べ立てる。
「…あわてないで、まだわからないわ。…だから、アスカ。あなたにお願いが
あるのよ」
「な、なによ」
「…シンジは目ざめるのが遅すぎたわ。だから12歳までの年齢制限がある魔
法初級コースを受講できないわ。このままだと、どんな優れた才能を持ってい
ても、『魔法使い』として大成できないわ」良くて「錬金術師」だわ、ユイは
思った。ふとゲンドウの寝顔を思い出す。

「ま、まさか」アスカの顔に恐怖に似た表情が浮かんだ。
「その、まさかよ。シンジを『弟子』にしてやってくれないかしら?」
「えええええええっ!やだー」
「お願い、アスカ。このとおりよ」ユイは14歳の少女に頭を下げる。
 アスカは、途方に暮れてしまった。思わずシンジの顔を見る。立ち上がった
自分をぼーっと見ていた。むらむらと形容しがたい怒りが湧いてくる。しかし、
自分を4年間住まわせてくれている先輩の魔女の頼みなのだ。それに彼女は呪
いから救ってくれたばかりではないか。
「あ、あんたはどうなのよっ」
「え、…き急にそんなこと言われたって、…かあさん」
「やりなさい。これは『お願い』よ」ユイは命令口調で言った。

 …ぼく、『魔法使い』なんだ。
 薄暗い子供部屋のベッドに横たわり、少年は妖精に声無き声で話しかけた。
その15センチほどのホムンクルスは、徳用インスタントコーヒー大の透明な
ガラス瓶に入っていた。
 シンジは、その瓶を胸に抱いているのだった。
『レイ』と名付けられたその小さな命は、瓶の内側のシンジの肌に触れてい
る面にそっと身を寄せて、ガラス越しに伝わってくる彼の暖かさにつつまれて
いた。
 …まほうつかいってなんのこと?
 よく冷えたおいしい水のような純粋なレイの思考が、シンジの頭に流れ込ん
でくる。
 わからないんだ。いいことか悪いことかすらも、ぼくには。
 シンジは言った。
 …きっといいことよ、いいことよ。
 そうだ。良いことに違いない。シンジはそう思うことに決めた。修行を積ん
で優れた『魔法使い』になってレイを人間にすることが出来るかもしれない、
シンジは思った。

 『魔女』と『魔法使い』のする事には通常の法律が適用される。これは19
世紀末『来訪』以降の世界各地の判例の通りである。さらにそれに加えて彼ら
には守るべき「法」があるのだ。それは世界の魔法界を統べる6人(現在は5
人)の『ウィザード』たちによって編集され、一冊の分厚い書物になっている。
その中に「魔法を用いて『人間』を創造してはならない」という条文がある
のだ。
 シンジは、いま、禁断の小道を辿り始めたのかもしれなかった。

 金曜の夜、その店は相変わらず男性客でいっぱいだった。
 こざっぱりした身なりの加持リョウジはカウンターに座り、子犬を抱いた魔
女の姿ではない若い男のバーテンダーにこう言った。
「フォアローゼスをストレートで。追い水(チェイサー)はいらない」
ステージのミサトと目が合った。
 彼女は三人のバンドメンに合図を送った。
 曲が始まった。
「セロニアス・モンク」の「ストレート、ノーチェイサー」…。おれにぴった
りの曲だな、リョウジはグラスをかつての恋人に向かって軽く差し上げた。


つづく