名誉勲章受章者-F-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ポール・H・フォスター | 軍曹 |
1967 |
ベトナム |
ウェズリー・L・フォックス |
中尉 |
1969 |
ベトナム |
チャールズ・R・フランシス |
兵 |
1900 |
中国(天津) |
ジョセフ・J・フランクリン |
兵 |
1898 |
キューバ |
アイザック・N・フライ |
小隊軍曹 |
1865 |
フィッシャー砦 |
エリ・T・フライアー |
大尉 |
1914 |
ベラ・クルス |
受賞者F-1 |
ポール・H・フォスター軍曹
1967年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊K中隊
1939年4月17日 | カリフォルニア州サン・マテオで生まれる |
1961年11月4日 | 海兵隊予備役 |
1962年3月 | 第4海兵師団第14海兵連隊(砲兵)配属 |
1963年3月 | 一等兵昇進 |
1963年8月 | 上等兵昇進 |
1964年4月 | 伍長昇進 |
1966年2月1日 | 軍曹昇進 |
1966年12月 | 第3海兵師団第12海兵連隊(砲兵)第3大隊H 中隊配属 |
1967年10月14日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国コンティエン近郊、第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊所属の砲撃連絡作戦主任としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1967年10月14日の早朝時、第2大隊はカムローからコンティエンへの主要路上の橋を守る防御陣地にいた。突然、海兵隊の拠点は 攻撃的な敵の地上攻撃を支える重厚な迫撃砲と大砲の砲火にさらされた。引き続く戦いにおいて、敵軍は周辺に潜入し、そして小火器、自動火器そしてロケット兵器を大隊司令所へ大量に集中させてきた。
火力支援調整所における彼の拠点が危険なほど敵の銃火にさらされ、そして敵の手榴弾が彼の拠点近くで爆発したことにより、負傷したが、フォスター軍曹は決然と前進してくる来たベトナム軍兵士へと迫撃砲と大砲の砲撃を指示し続けた。
その攻撃は続き、手榴弾がフォスター軍曹と彼の五人の戦友の中間に落下した。危険を察知した彼は大声で警告を発し、手榴弾の上に彼のアーマーベストを投げ、更に躊躇うことなくアーマーベストの上に自らの身体をのせた。
その手榴弾が爆発したとき、フォスター軍曹は彼自らの身体によって全ての爆風を吸収したために致命傷を負っていた。彼の英雄的行為は疑いなく更なる負傷と死の可能性から彼の戦友を救った。
フォスター軍曹の勇気、並外れた英雄的行為と義務に対する堅実な献身は大きな名誉を自らと合衆国海兵隊にもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・ニクソン
ウェズリー・L・フォックス中尉
1969年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊長
1931年9月30日 | バージニア州ハーンドンで生まれる |
1950年8月4日 | 海兵隊入隊 |
1950年10月 | 第2海兵師団ライフルマン |
1951年9月8日 | 第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊で朝鮮戦争従軍中に負傷し、本国送還 |
1952年3月 | ワシントンDC及び第11航空集団(日本)憲兵勤務(-1953年9月) |
1952年9月 | 第5海兵連隊第3大隊G中隊付き小隊軍曹として二度目の朝鮮戦争従軍 |
1953年 | サンディエゴ訓練教官 |
1960年12月 | 沖縄にて第1フォースリーコン中隊付き小隊軍曹(-1962/11) |
1966年5月 | 第1曹長昇進後、少尉任官 |
1966年8月 | 第2フォースリーコン中隊小隊長 |
1968年11月 | 第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊長 |
1969年2月22日 | 名誉勲章 |
1969年4月1日 | 大尉昇進 |
1993年9月 | 大佐にて退役 |
感状:
1969年2月22日、ベトナム共和国クアンチ省北アシャウバレーにおいて敵に対する戦闘中、第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊の指揮官として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
フォックス大尉(当時中尉)の中隊は、大規模な巧みに隠蔽された敵部隊からの激しい銃撃下におかれた。フォックス大尉は、彼の小隊長たちと協議し、そして状況を評価できるだろう地点まで移動した。彼の立てた計画を実行するために彼らが出発すると、敵を攻撃し、そしてフォックス大尉は幹部将校をのぞく指揮機関の他のメンバー全てとともに負傷していた。フォックス大尉は彼の中隊の行動を導き続けた。
敵の激しい砲火の中、前進し、彼は自分自身で一つの敵拠点を無力化し、そして従容と敵軍の銃座に対する攻撃を命令した。それから、彼は彼の部下の活動とともに航空支援を調整し、危険地帯で首尾良く行動した。
彼の幹部将校が致命傷を負ったとき、フォックス大尉は中隊を再編成し、そして手榴弾を敵に投げ付け、彼の部下の射撃を指示したので敵軍を退却へと追い込んだ。
最後の突撃において負傷したフォックス大尉は治療を拒絶し、防御態勢を確立させ、そして死傷者の医療搬出の準備を監督した。
自分自身も重大な危機に直面しての独創力と義務への揺らぐことのない忠誠を呼び起こす彼の不屈の勇気は、敵の抵抗全てをはねのけ、そして巨大な掩蔽壕陣を破壊するほど攻撃的な戦闘へと海兵隊員を鼓舞させた。
フォックス大尉の英雄的行為は、大きな名誉を自らと合衆国海兵隊にもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を支える。
リチャード・ニクソン
チャールズ・R・フランシス兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊55号
1875年5月19日 | ペンシルヴァニア州ドイルストーンで生まれる |
感状:
1900年6月21日、中国天津近郊の戦いにおいて敵の目前で、フランシスは賞賛する行為によって目立った。
1898年:キューバ
USSナッシュビル海軍分遣隊521号
1870年6月18日 | ニューヨーク州バッファローで生まれる |
感状:
USSナッシュビルに乗り組んでいる際、1898年5月11日、キューバシエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する作戦中、敵の激しい銃撃に直面し、フランクリンはこの戦闘の至る所で冷静さと並外れた勇敢さの実例を示した。
アイザック・N・フライ小隊軍曹
1865年:フィッシャー砦
USSタイコンデロガ海軍分遣隊59号
1839年2月 | ペンシルヴァニア州エファラータで生まれる |
1862年9月10日 | 海兵隊入隊 |
1865年 | 名誉勲章 |
1866年9月20日 | 名誉除隊 |
1900年 | 死去 |
感状:
1965年1月13日から15日まで、フォートフィッシャーに対する攻撃の間、USSタイコンデロガに乗り組んでいた。
海兵隊守衛の小隊軍曹及び砲の指揮官として、三日間の戦闘初期の段階の間、絶壁左側面の砲台に正確に位置する砲撃を維持したのでフライ小隊軍曹は技術と勇気とともに彼の義務を行い、そして、その後、彼女が要塞の砲撃の火力がかなり低下させたので、我々が縦隊を襲撃することに向けられた。この戦闘中、その旗は反逆者によって所有されている最強の要塞のうちの一つに立てられた。
エリ・T・フライアー大尉
1914年:ベラ・クルス
海軍分遣隊177号
1878年8月22日 | ニュージャージー州ハイストーンで生まれる |
1897年6月19日 | 軍学校入学(-1899年6月19日卒業) |
1900年3月21日 | 海兵隊少尉 |
1903年3月3日 | 中尉昇進 |
1903年6月5日 | USSパンサー搭乗(-1905年3月14日) |
1908年5月13日 | 大尉昇進 |
1914年4月21日 | 名誉勲章 |
1914年11月 | 第2海兵連隊副官 |
1915年8月4日 | 第20中隊長 |
1929年7月25日 | パリスアイランド海軍刑務所長(-1929年10月1日) |
1933年9月 | 第2海兵連隊長 |
1934年10月1日 | 大佐にて退役 |
1942年2月23日 | 准将 |
1963年6月6日 | 死去 |
感状:
1914年4月21日と22日、ベラ・クルスの交戦における顕著な行為による。
卓越し、そして顕著な彼の行為によって双方の日に、彼の中隊の先頭で戦った。技術と勇気によって彼の部下を導く。
受賞者F-1 |