名誉勲章受章者-F-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ジョン・P・ファーディ |
伍長 |
1945 |
沖縄 |
オスカー・W・フィールド |
兵 |
1898 |
キューバ |
ハリー・フィッシャー |
兵 |
1900 |
中国(北京) |
ジョン・フィッツジェラルド |
兵 |
1898 |
キューバ |
リチャード・E・フレミング |
大尉 |
1915 |
ハイチ |
アレキサンダー・J・フォレイ |
軍曹 |
1900 |
中国(天津) |
パトリック・F・フォードJr. |
兵 |
1898 |
キューバ |
ブルーノ・A・フォーストリアー |
軍曹 |
1899 |
サモア |
ジョセフ・J・フォス |
大尉 |
1942 |
ガダルカナル |
ウィリアム・A・フォスター |
一等兵 |
1945 |
沖縄 |
ポール・H・フォスター | 軍曹 |
1967 |
ベトナム |
ウェズリー・L・フォックス | 中尉 |
1969 |
ベトナム |
チャールズ・R・フランシス | 兵 |
1900 |
中国(天津) |
ジョセフ・J・フランクリン | 兵 |
1898 |
キューバ |
アイザック・N・フライ | 小隊軍曹 |
1865 |
フィッシャー砦 |
エリ・T・フライアー | 大尉 |
1914 |
ベラ・クルス |
受賞者E |
ジョン・P・ファーディ伍長
1945年:沖縄
第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊
1922年8月15日 | イリノイ州シカゴで生まれる |
1943年5月8日 | 海兵隊入隊 |
1943年12月26日 | ケープグロースター上陸 |
1944年9月15日 | ペリリュー上陸 |
1945年5月7日 | 戦死 |
感状:
1945年5月7日琉球諸島沖縄本島の敵日本軍部隊に対する戦闘で、第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊所属の分隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の分隊が強固に防備を固め、猛烈に守られた日本軍拠点に対する決然とした前進中の前線からの非常に激しい小火器の銃撃によって突如激しく攻撃を受けたとき、ファーディ伍長は、付近の排水溝に沿って部下を一時的に配置した。
その直後に、敵の手榴弾が排水構内の海兵隊員の間に落下した。即座に、致命的飛び道具の上に自身を投げ出して、ファーディ伍長は彼自身の身体によって爆発の衝撃を吸収し、それによって生じる致命的な損傷から彼の戦友を守った。
ただ彼の部下の救済を気にかけ、彼は彼の戦友の海兵隊員が生きて狂信的敵との戦いを続けるために彼自身の生存の希望を喜んで捨てた。勇敢なリーダー、そして不屈の闘士ファーディ伍長は、彼の確実な死に直面した際の自己犠牲への迅速な判断と決断の精神により、勇敢な職務を行い、そして彼の全ての行いにより、最高の名誉を自らと合衆国海軍職務にもたらす。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
オスカー・W・フィールド兵
1898年:キューバ
USSナッシュビル海軍分遣隊521号
1873年10月6日 | ニュージャージー州ジャージーシティで生まれる |
1896年8月10日 | 海兵隊入隊 |
1899年7月7日 | 名誉勲章 |
不明 | 除隊 |
1912年1月5日 | 死去 |
感状:
USSナッシュビルに乗り組んでいる際、1898年5月11日、キューバシエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する作戦中、敵の激しい銃撃に直面し、フィールドはこの戦闘の至る所で冷静さと並外れた勇敢さの模範を示した。
ハリー・フィッシャー兵(本名:フランクリン・J・フィリップス)
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1874年10月20日 | ペンシルヴァニア州マッキーズポートで生まれる |
感状:(ハリー・フィッシャー)
1900年6月20日から7月16日、中国北京の戦いにおいて敵を目前にして役だった。
戦闘中のバリケード構築を支援し、フィッシャーは敵の激しい砲火により殺害された。
感状:(フランクリン・J・フィリップス)
1900年6月20日から1900年7月16日までの義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
中国北京の戦いで敵の面前においてフィリップス兵は従事していた。
激しい敵の銃撃によって彼は殺されたが、戦闘中、バリケードの構築を助けた。
彼の勇ましい行為、不屈の精神、そして義務への完璧な献身に、フィリップス兵は彼個人に最高の名誉をもたらし、そして海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を維持した。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ウィリアム・マッキンリー
ジョン・フィッツジェラルド兵
1898年:キューバ
海軍分遣隊92号
1873年3月17日 | アイルランド リメリックで生まれる |
1894年12月1日 | 海兵隊入隊 |
1905年2月21日 | 名誉勲章 |
1905年2月21日 | 名誉除隊(最終階級一等軍曹) |
1948年4月19日 | 死去 |
感状:
1898年6月14日、キューバクスコの戦闘中の英雄的行為及び勇敢的行為による。
リチャード・E・フレミング大尉
1942年:ミッドウェー
第241海兵偵察爆撃航空隊
1917年11月2日 | ミネソタ州セントポールで生まれる |
1935年 | セントトマス士官学校首席卒業。同年ミネソタ大学入学 |
1939年 | 海兵隊予備役 |
1940年 | パイロット資格取得 |
1941年12月17日 | 真珠湾からミッドウェー島へ移動 |
1942年6月5日 | 連合艦隊空母に対する攻撃中、戦死 |
感状:
1942年6月4日及び5日のミッドウェーの戦いにおいて敵日本軍部隊に対する戦闘中、第241海兵偵察爆撃航空隊の航空将校としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の航空指揮官が敵航空母艦に対する最初の攻撃中に撃墜されたとき、フレミング大尉は彼の爆弾を投下する前に400フィートの危険な低高度へ彼自身の航空機を急降下させたほど断固たる決意で航空隊の残りを導いた。
日本軍の戦闘機の機銃と対空砲から浴びせられた強烈な銃弾の雨により、179の命中弾を受け、彼の機体を穴だらけにしたが、彼は自らが受けた二つの軽傷だけで済んだ。6月4日の夜、航空指揮官を失い、そして孤立した状態になったとき、フレミング大尉は、その基地が危険な天候状態と真っ暗闇にもかかわらず、安全な着陸により彼自身の航空機を帰還させた。
次の日、僅か4時間の睡眠の後、彼は彼の航空隊の雷撃機と急降下爆撃機による二つの隊を統合し、日本軍戦艦に対する攻撃へ導いた。運命的な接近滑空により、彼の機体は撃たれ燃え上がったがくじけずに、彼は彼の攻撃を500フィートの高度で正確に狙いを定め、成功するために彼の目標の船尾へ異常なまでに接近して彼の爆弾を投下した後、炎上しながら海へ激突した。
義務に対するびくともしない忍耐と変わることのない忠誠は合衆国海軍職務の最も高い伝統を維持した。
フランクリン・D・ルーズベルト
アレキサンダー・J・フォレイ軍曹
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1866年2月19日 | ペンシルバニア州ヘッカーズビルで生まれる |
感状:
1900年7月13日、中国天津近郊の戦いにおいて敵の目前で、フォーリーは賞賛に値する行為によって自らを目立たせた。
パトリック・F・フォードJr.兵(ジェームズ・マリディスより改名)
1898年:キューバ
USSマーブルヘッド海軍分遣隊521号
1872年4月11日 | ネブラスカ州オマハで生まれる |
1896年7月23日 | 海兵隊入隊 |
1899年8月15日 | 名誉勲章 |
1901年9月9日 | 名誉除隊 |
1915年1月18日 | 死去 |
感状:
USSマーブルヘッドに乗り組んでいる際、1898年5月11日、キューバシエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する際の並外れた勇敢と冷静さによる。
ブルーノ・A・フォーストリアー軍曹
1899年:サモア
海軍分遣隊55号
1869年7月14日 | ドイツ ケーニスベルグで生まれる |
感状:
1899年4月1日、サモア諸島の敵前における顕著な活躍による。
ジョセフ・J・フォス大尉
1942年:ガダルカナル
第1海兵航空団第121海兵戦闘航空隊"カクタス飛行隊"
1915年4月17日 | サウスダコタ州スーフォールズで生まれる |
1939年10月 | サウスダコタ大学在学中、サウスダコタ州兵(-1940/3) |
1940年6月14日 | 海兵隊予備役 |
1940年8月8日 | パイロット候補生 |
1942年9月 | ガダルカナル到着 |
1942年10月29日 | 23機撃墜達成(第1次世界大戦のエースの記録とタイ) |
1943年4月 | 26機撃墜後、アメリカへ帰還 |
1943年5月18日 | 名誉勲章授与 |
1944年2月 | 第115海兵戦闘航空隊隊長(少佐) |
1944年9月 | アメリカへ帰還 |
1945年12月8日 | 海兵隊予備役 |
1946年9月19日 | サウスダコタ州空軍中佐 |
1947年1月28日 | 海兵隊退役 |
1953年9月20日 | サウスダコタ州空軍准将 |
1954年6月 | サウスダコタ州知事(共和党) |
1960年 | アメリカフットボール連盟初代理事(-1966) |
1988年 | 全米ライフル協会会長(-1990) |
2003年1月1日 | 死去 |
感状:
ソロモン諸島ガダルカナルの海兵戦闘航空隊の指揮官としての義務の要求を越え、そしてより上の傑出した英雄的行為と大胆さによる。
1942年10月9日から11月19日まで、敵とのほぼ毎日の戦闘に従事したフォス大尉は、個人として23機の日本軍航空機を撃墜し、そして、非常にそれらの破壊がほぼ確実であったほど厳しく他の機を損傷させた。
更に、この期間中、彼はビーチクラフトのように偵察、爆撃そして写真撮影の航空機を巧みに援護し、多数の護衛任務を首尾良く導いた。
1945年1月15日に、彼は更に敵航空機3機を、この戦争において空中戦最高記録達成に成功し、それまでの彼の素晴らしい記録に加えた。
1月25日には接近する敵部隊を大胆に発見し、フォス大尉が8機のF4F海兵隊航空機と4機の陸軍P38を導き、そして遙かに数で勝っていることを恐れずに、その部隊で打撃を与え、4機の日本軍戦闘機を撃墜し、そしてそれらの爆撃機に一つの爆弾も投下させず撤退させた。
彼の注目すべき飛行技術、感激させるリーダーシップと不屈の闘争心はガダルカナルにおける戦略的なアメリカの拠点の防衛特有の要素であった。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィリアム・A・フォスター一等兵
1945年:沖縄
第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊K中隊
1917年2月17日 | オハイオ州クリーブランドで生まれる |
1938年 | オハイオ州兵入隊 |
1944年4月1日 | 海兵隊入隊 |
1945年5月2日 | 戦死 |
感状:
1945年5月2日、琉球列島沖縄本島において敵日本軍部隊に対する戦闘の際、第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊K中隊所属のライフルマンとして義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
潜入してきた敵兵士たちと激しい手榴弾の決闘による交戦を行ったフォスター一等兵と戦友は、強固に防備を固めた日本軍拠点に対し、怒り狂った激しい攻撃を実施した後、周辺防御のため他の海兵隊員とともに塹壕を掘った。
突然、敵手榴弾が塹壕の手の届かない場所へ落下した。即座に致命的飛び道具へ飛び込んでフォスター一等兵は、彼自身の身体で爆発の衝撃を吸収し、それにより、重傷から他の海兵隊員を守った。
彼は英雄的行為によって致命傷を負ったが、彼はすぐに集まらせ、彼自身の残っている二個の手榴弾を彼の戦友に渡して言った。「奴らに数えさせてやれ」
勇敢なそして断固とした彼は、彼自身の生き残りのチャンスを躊躇うことなく捨て、彼の同僚の海兵隊員たちが熱狂的な敵に対する情け容赦のない戦闘へ向かわせる力となり、そして確実な死に直面した彼の勇敢な決意、冷静な判断と勇敢な心はフォスター一等兵、そして合衆国海軍職務で最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ポール・H・フォスター軍曹
1967年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊K中隊
1939年4月17日 | カリフォルニア州サン・マテオで生まれる |
1961年11月4日 | 海兵隊予備役 |
1962年3月 | 第4海兵師団第14海兵連隊(砲兵)配属 |
1963年3月 | 一等兵昇進 |
1963年8月 | 上等兵昇進 |
1964年4月 | 伍長昇進 |
1966年2月1日 | 軍曹昇進 |
1966年12月 | 第3海兵師団第12海兵連隊(砲兵)第3大隊H 中隊配属 |
1967年10月14日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国コンティエン近郊、第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊所属の砲撃連絡作戦主任としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1967年10月14日の早朝時、第2大隊はカムローからコンティエンへの主要路上の橋を守る防御陣地にいた。突然、海兵隊の拠点は 攻撃的な敵の地上攻撃を支える重厚な迫撃砲と大砲の砲火にさらされた。引き続く戦いにおいて、敵軍は周辺に潜入し、そして小火器、自動火器そしてロケット兵器を大隊司令所へ大量に集中させてきた。
火力支援調整所における彼の拠点が危険なほど敵の銃火にさらされ、そして敵の手榴弾が彼の拠点近くで爆発したことにより、負傷したが、フォスター軍曹は決然と前進してくる来たベトナム軍兵士へと迫撃砲と大砲の砲撃を指示し続けた。
その攻撃は続き、手榴弾がフォスター軍曹と彼の五人の戦友の中間に落下した。危険を察知した彼は大声で警告を発し、手榴弾の上に彼のアーマーベストを投げ、更に躊躇うことなくアーマーベストの上に自らの身体をのせた。
その手榴弾が爆発したとき、フォスター軍曹は彼自らの身体によって全ての爆風を吸収したために致命傷を負っていた。彼の英雄的行為は疑いなく更なる負傷と死の可能性から彼の戦友を救った。
フォスター軍曹の勇気、並外れた英雄的行為と義務に対する堅実な献身は大きな名誉を自らと合衆国海兵隊にもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・ニクソン
ウェズリー・L・フォックス中尉
1969年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊長
1931年9月30日 | バージニア州ハーンドンで生まれる |
1950年8月4日 | 海兵隊入隊 |
1950年10月 | 第2海兵師団ライフルマン |
1951年9月8日 | 第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊で朝鮮戦争従軍中に負傷し、本国送還 |
1952年3月 | ワシントンDC及び第11航空集団(日本)憲兵勤務(-1953年9月) |
1952年9月 | 第5海兵連隊第3大隊G中隊付き小隊軍曹として二度目の朝鮮戦争従軍 |
1953年 | サンディエゴ訓練教官 |
1960年12月 | 沖縄にて第1フォースリーコン中隊付き小隊軍曹(-1962/11) |
1966年5月 | 第1曹長昇進後、少尉任官 |
1966年8月 | 第2フォースリーコン中隊小隊長 |
1968年11月 | 第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊長 |
1969年2月22日 | 名誉勲章 |
1969年4月1日 | 大尉昇進 |
1993年9月 | 大佐にて退役 |
感状:
1969年2月22日、ベトナム共和国クアンチ省北アシャウバレーにおいて敵に対する戦闘中、第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊の指揮官として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
フォックス大尉(当時中尉)の中隊は、大規模な巧みに隠蔽された敵部隊からの激しい銃撃下におかれた。フォックス大尉は、彼の小隊長たちと協議し、そして状況を評価できるだろう地点まで移動した。彼の立てた計画を実行するために彼らが出発すると、敵を攻撃し、そしてフォックス大尉は幹部将校をのぞく指揮機関の他のメンバー全てとともに負傷していた。フォックス大尉は彼の中隊の行動を導き続けた。
敵の激しい砲火の中、前進し、彼は自分自身で一つの敵拠点を無力化し、そして従容と敵軍の銃座に対する攻撃を命令した。それから、彼は彼の部下の活動とともに航空支援を調整し、危険地帯で首尾良く行動した。
彼の幹部将校が致命傷を負ったとき、フォックス大尉は中隊を再編成し、そして手榴弾を敵に投げ付け、彼の部下の射撃を指示したので敵軍を退却へと追い込んだ。
最後の突撃において負傷したフォックス大尉は治療を拒絶し、防御態勢を確立させ、そして死傷者の医療搬出の準備を監督した。
自分自身も重大な危機に直面しての独創力と義務への揺らぐことのない忠誠を呼び起こす彼の不屈の勇気は、敵の抵抗全てをはねのけ、そして巨大な掩蔽壕陣を破壊するほど攻撃的な戦闘へと海兵隊員を鼓舞させた。
フォックス大尉の英雄的行為は、大きな名誉を自らと合衆国海兵隊にもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を支える。
リチャード・ニクソン
チャールズ・R・フランシス兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊55号
1875年5月19日 | ペンシルヴァニア州ドイルストーンで生まれる |
感状:
1900年6月21日、中国天津近郊の戦いにおいて敵の目前で、フランシスは賞賛する行為によって目立った。
1898年:キューバ
USSナッシュビル海軍分遣隊521号
1870年6月18日 | ニューヨーク州バッファローで生まれる |
感状:
USSナッシュビルに乗り組んでいる際、1898年5月11日、キューバシエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する作戦中、敵の激しい銃撃に直面し、フランクリンはこの戦闘の至る所で冷静さと並外れた勇敢さの実例を示した。
アイザック・N・フライ小隊軍曹
1865年:フィッシャー砦
USSタイコンデロガ海軍分遣隊59号
1839年2月 | ペンシルヴァニア州エファラータで生まれる |
1862年9月10日 | 海兵隊入隊 |
1865年 | 名誉勲章 |
1866年9月20日 | 名誉除隊 |
1900年 | 死去 |
感状:
1965年1月13日から15日まで、フォートフィッシャーに対する攻撃の間、USSタイコンデロガに乗り組んでいた。
海兵隊守衛の小隊軍曹及び砲の指揮官として、三日間の戦闘初期の段階の間、絶壁左側面の砲台に正確に位置する砲撃を維持したのでフライ小隊軍曹は技術と勇気とともに彼の義務を行い、そして、その後、彼女が要塞の砲撃の火力がかなり低下させたので、我々が縦隊を襲撃することに向けられた。この戦闘中、その旗は反逆者によって所有されている最強の要塞のうちの一つに立てられた。
エリ・T・フライアー大尉
1914年:ベラ・クルス
海軍分遣隊177号
1878年8月22日 | ニュージャージー州ハイストーンで生まれる |
1897年6月19日 | 軍学校入学(-1899年6月19日卒業) |
1900年3月21日 | 海兵隊少尉 |
1903年3月3日 | 中尉昇進 |
1903年6月5日 | USSパンサー搭乗(-1905年3月14日) |
1908年5月13日 | 大尉昇進 |
1914年4月21日 | 名誉勲章 |
1914年11月 | 第2海兵連隊副官 |
1915年8月4日 | 第20中隊長 |
1929年7月25日 | パリスアイランド海軍刑務所長(-1929年10月1日) |
1933年9月 | 第2海兵連隊長 |
1934年10月1日 | 大佐にて退役 |
1942年2月23日 | 准将 |
1963年6月6日 | 死去 |
感状:
1914年4月21日と22日、ベラ・クルスの交戦における顕著な行為による。
卓越し、そして顕著な彼の行為によって双方の日に、彼の中隊の先頭で戦った。技術と勇気によって彼の部下を導く。
受賞者E |