キンモクセイ
「お、いい匂い。」
一歩先を歩くモトキの呟きに、タカヤは下げていた視線を上げた。
シニアの練習の帰り道。
二人きりのわずかな時間。
いつの頃からか一緒に帰るようになって、それは今も続いている。
会話が弾むことも少ないけれど、タカヤにとってはモトキの隣に在ることを許されたようなこんな時間はとても嬉しいものだった。
視線を上げたついでに見たモトキの顔はやけに機嫌良さげで、それがまたタカヤに笑みを浮かべさせる。
そしてそんなタカヤの鼻先を、ほんのりと掠めていく香りがあった。
(……キンモクセイ?)
微かに香るにしてはしっかりと鼻に残る甘い香り。
首を巡らして香りの出所を探れば一つ先の家の角に大きなキンモクセイが植えられていた。
よく見ればオレンジ色の小さな花が濃いめの緑の中にちらほらと。
まだ満開には程遠いようだがそれでも十分に香りは楽しめる。
こんな風に近くをただ通り過ぎるだけでも。
「キンモクセイ、ですね。」
「あ?」
タカヤが返した言葉に、モトキの反応は今ひとつだった。
もしかしたら独り言のつもりで、声に出した覚えもなかったのかもしれない。
「あ、いえ。さっき『いい匂い』だって言いましたよね。」
「あれ、オレ声に出してた?」
「はい。それでその後オレにもキンモクセイの香りがしたから。えっと、スミマセン。」
「いや、別にいいけど。……キンモクセイ?」
「ええ。ほらそこにあるでしょ、大きなキンモクセイの木。」
タカヤが指したのはもうすぐそばにある、先ほどのキンモクセイ。
近づいて改めて見てみれば葉の陰にも花が咲いているのがわかった。
「へえ、ちっちゃい花がたくさん咲いてんのな。これがキンモクセイか。すげえ甘い匂い。」
壁際まで寄ってまじまじと見つめるモトキの呟きに、だがタカヤは違和感を覚えた。
(……甘い、匂い?)
モトキはまだキンモクセイを眺めている。
なんかおかしい、とタカヤは思った。
「モトキさん。」
「んー?」
「さっき言ってた『いい匂い』ってこの香りじゃないんですか?」
どうみてもモトキの反応は解せないものだった。
たとえキンモクセイ自体を知らなかったとしても、それなら香りと実物が結びついた納得感がうかがえるはずだ。
今のモトキからは実物とそれに付随する香りを初めて知ったとしか思えないところがある。
だからタカヤは心の準備をしながら聞いた。
モトキの言う『いい匂い』はなんなのかと。
「そうだ、タカヤ。コンビニ行くぞ!」
「え、モトキさん、なに……。」
タカヤの問いを聞いた途端、何かを思い出したようにモトキは早足で歩き出した。
コンビニはもう二つ先の角にある。
置いていかれそうになって、タカヤも慌てて後を追った。
「どうしたんですか、いったい。」
「さっきいい匂いがしたんだよ、焼肉の。たぶんその辺の家の晩飯だと思うんだけどさ。そしたら腹減ってしょうがなくなっちまって。肉まんでも食ってこうぜ。」
『花よりだんご』
『色気より食い気』
そんな言葉がタカヤの頭に浮かんでは消えていった。
初出
2009.10.12